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10 渡部昇一「日本の歴史」〈第2巻〉中世篇―日本人のなかの武士と天皇


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内容(「BOOK」データベースより)

義経・正成はなぜ不死の英雄なのか?武士の美学、天皇の神性はこうして形成された。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

渡部/昇一
上智大学名誉教授。英語学者。文明批評家。1930年、山形県鶴岡市生まれ。上智大学大学院修士課程修了後、独ミュンスター大学、英オクスフォード大学に留学。Dr.phil.,Dr.phil.h.c.(英語学)。第24回エッセイストクラブ賞、第1回正論大賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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目次

第1章 武家の台頭―平家の栄華
第2章 平家滅亡と血ぬられた源氏の抗争
第3章 北条一族の盛衰
第4章 建武の中興―楠木正成と日本人
第5章 混迷する南北朝
第6章 足利義満の野望


カスタマーレビューがあります。 関連イメージ。
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レビュー記事

渡部亮次郎氏のメルマガ「頂門の一針」(4月26日)より転載(部分)

2016-04-26 16:24 koreyasublog
━━━━━━━
足利義満の野望
━━━━━━━
 
 伊勢 雅臣
 
■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」
 
東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室 町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
 
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14

世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

 
室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収して いき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 

この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸 宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。

 

足利義満(13581408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りまし た。[1,p71]

 

そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から、後醍醐天 皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ。南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したもの だった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。

 
 
■2.「臣下として屈従する姿勢」
 

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収し て統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。

 

他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、 明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国 王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。 [2,p95]

 

冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命 書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。

 
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明 する。
 

明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のために は、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。義満は明の皇帝 にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任 命された。

 

「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもの で、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]

 
 
 
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」
 
義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
 
応永(JOG: 13941427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こ ちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永 8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。 [3,p379]
 

義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送 り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした。「朕大位を嗣ぐ より、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊 大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。

 

これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して 貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求め た文書である。

 

この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘す るところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。 [3,p381]

 
 
 
■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交
 
 義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したも のであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
 

こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき と同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。起草 者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、 日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]

 
 

「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交 を指す[4,p78]。聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の 天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]

 

義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにする ものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

 
 
■5.「公武を統合した日本全体の代表者」
 
村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
 

その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛 盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると 自負していたからであった。[4,266]

 
 

「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍と ともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。

 

 たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。その日、 義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人 数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。

 

 18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼 食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 
 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢 さを義満は恥じなかった。
 
 
■6.皇位の簒奪まであと一歩
 
村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負し ていた」という点は、次のような事実から窺える。
 

北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位し たがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振 る舞いをした。

 

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代 の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であった らしい。しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとり あげ、南北朝の合一を実現した。

 

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」に するという詔書を貰っている。妻が天皇の母代わりになれば、その夫であ る自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

 

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもと に、親王と同じ次第で元服式を行った。そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。

 

ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるま で、あと一歩であった。そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。

 

しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を 引いている、という自負があったようだ。母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。男系の女子なら皇位についた前例が あるが、女系では皇位につけない。[c]

 

女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力 者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。義満はそうと知っていても、自らの野望を実現す るために、それを無視したのだろう。

 
 
■7.義満の死による「天佑神助」
 
ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が 急に咳(せ)き込み、発病したのである。10
 
日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
 

これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで 偶然だろう。いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩と いうところで実現せずに終わったのである。

 
 
・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。
 

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした 義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]

 
 

もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまってい た。そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。

 

 しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴 史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。

 

権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多 くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。

 
 
■8.反面教師・義満
 

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。 鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満 は法皇そのものの称号を贈られたのである。

 

しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち) は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘 も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。将軍でありながら、公家も 牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。

 
義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿 易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。
 

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再 開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。

 

将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争い を繰り広げるようになる。播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上 で暗殺するという事件を起こした。この後、足利将軍家は形だけの存在と なり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。

 

以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この2つは、わが 国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、 将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師な のである。

 
 東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義 満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
 
 
 
■リンク■
 
a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け 暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
 
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html
 
c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html
 
 
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
 →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
 
1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27
 

2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、自由社、H27

http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237834/japanontheg01-22/
 
3. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETF4/japanontheg01-22/
 
4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
 
5. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇」★★★、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/
 
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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望

2016-04-24 02:27 護国夢想日記

■■ Japan On the Globe(948) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■
歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望
貿易のために明への臣従外交を行い、皇位簒奪まで図った野望家。
■転送歓迎■ H28.04.24 ■ 45,780 Copies ■ 4,172,756Views■
無料購読申込・取消: http://blog.jog-net.jp/
■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」

東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
__________
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収していき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
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この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。
__________
足利義満(1358~1408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りました。[1,p71]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から後醍醐天皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ


南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したものだった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。
■2.「臣下として屈従する姿勢」

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収して統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。
__________
他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。


義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。[2,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明する。
__________
明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のためには、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。


義満は明の皇帝にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任命された。
「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもので、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]
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■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」

義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
__________
応永(JOG注: 1394~1427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。[3,p379]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした


「朕大位を嗣ぐより、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。
__________
これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG注: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求めた文書である。
この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘するところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。[3,p381]
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■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交

義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したものであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
__________
こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったときと同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。


起草者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]
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「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交を指す[4,p78]。


聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]
 義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにするものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

■5.「公武を統合した日本全体の代表者」

村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
__________
その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していたからであった。[4,266]
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「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍とともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。
たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。


その日、義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。
18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢さを義満は恥じなかった。
■6.皇位の簒奪まであと一歩

村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していた」という点は、次のような事実から窺える。
北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位したがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。


義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振る舞いをした。

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。


幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であったらしい。


しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとりあげ、南北朝の合一を実現した。

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」にするという詔書を貰っている。


妻が天皇の母代わりになれば、その夫である自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもとに、親王と同じ次第で元服式を行った。


そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。
ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるまで、あと一歩であった。


そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。
しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を引いている、という自負があったようだ。


母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。


男系の女子なら皇位についた前例があるが、女系では皇位につけない。[c]
女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。


義満はそうと知っていても、自らの野望を実現するために、それを無視したのだろう。
■7.義満の死による「天佑神助」

ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が急に咳(せ)き込み、発病したのである。


そして10日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
__________
これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで偶然だろう。


いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩というところで実現せずに終わったのである。

・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまっていた


そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。
しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。
権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。
■8.反面教師・義満

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。


鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。


「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満は法皇そのものの称号を贈られたのである。
しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち)は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。


さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。


将軍でありながら、公家も牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。
 義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。
将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争いを繰り広げるようになる。


播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上で暗殺するという事件を起こした。


この後、足利将軍家は形だけの存在となり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。
以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この二つは、わが国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。


独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師なのである。
東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
(文責:伊勢雅臣)

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■リンク■

a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html
c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
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歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い

2016-02-14 00:48 護国夢想日記

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歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
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■1.あまりにも表面的な「南北朝時代」の記述
 後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」がわずか2年余りで崩れた後、南北朝時代を迎える。


この後、約60年間、二つの朝廷が並び立つという空前絶後の異常事態が続くのだが、東京書籍版の中学歴史教科書の記述はわずか4行である。
__________
尊氏は京都に新たに天皇を立て、後醍醐天皇が吉野(奈良県)にのがれたので、二つの朝廷が生まれました。京都方を北朝、吉野方を南朝と呼び、この南北朝は全国の武士によびかけて戦いました。南北朝の動乱のつづいた約60年を南北朝時代といいます。[1,p70]
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これでは南北朝が互いの権力争いのために、全国を約60年間も戦乱に陥れた、という理解で終わってしまう。
一方、自由社版中学歴史教科書も、多少は詳しいが、大同小異の記述である。
__________
南北朝の争乱 1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは、京都に幕府を開き、鎌倉時代初期の北条泰時らの政治を手本とする、幕府政治再興の方針を明らかにしたものだった。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに2つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。両者は別々の年号を使った。
吉野に置かれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両者はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国で争いをつづけた。この時代を南北朝時代という。[2,p93]
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何のために南朝は吉野の山奥で約60年間も抵抗を続けたのか、そして勝利した足利幕府がなぜ権威を失って戦国時代に突入するのか、ここには我が国の国柄を理解する上で重大なポイントが潜んでいる。
■2.尊氏の策略から始まった南北朝

 そもそも南北朝並立という前代未聞の異常事態が始まったのは、尊氏の謀略からである。

九州から押し寄せた足利軍に対して、延元元(1336)年5月25日、湊川(現・兵庫県)の戦いに敗れた後、楠木正成・正季兄弟は「七生報国(七たび人間に生まれ変わって国に報いる)」を誓って差し違えた。
5月27日、後醍醐天皇は叡山に逃れたが、8月15日、京都に入った足利尊氏は持明院統の光厳(こうごん)上皇の弟宮を立てて光明天皇とした


後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが二朝並立の始まりである。
しかし、三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇には正統性はない。


そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京都に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、神器を光明天皇に渡すように強要した。
後醍醐天皇は、こうした事態も予期されていた様子で、偽物と言われる神器を渡された上で、秘かに12月21日夜、吉野(現・奈良県南部)に逃れ出た。こうして南朝が始まったのである。
後醍醐天皇在位のまま神器もなしの北朝擁立といい、神器を得るための策略といい、私欲のためには手段を選ばない尊氏の人となりが見てとれる。

■3.南朝の全国ネットワーク

南朝と言うと、いかにも吉野の山奥に潜んで、ゲリラ的抵抗を続けていたかのように思えるが、実際にはそうではなかった。


そもそも吉野は修験道の本拠地として、多くの寺社を擁し、それぞれが数百、数千の衆徒を抱える富強の地であった。
東は伊勢の地で勤王の志厚く、さらに海路で陸奥につながる。そこには北畠親房(ちかふさ)・顯家(あきいえ)親子が後醍醐天皇の第七皇子・義良(のりなが)親王(次代・後村上天皇)を奉じて関東を窺っていた。
西の河内は楠木一族の本拠地であり、そこから南朝方の熊野や伊予の水軍が支配する瀬戸内海を経て、九州の菊池・阿蘇ら勤王軍につながる。後醍醐天皇は懐良(かねよし)親王を征西将軍宮として派遣され、この親王のもとで九州では南朝方が優勢だった。
さらに北陸には新田義貞の一族が、京都を睨んでいた。このように南朝は吉野を中心に、全国的なネットワークを構築して、北朝と対峙していたのである。
■4.「城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み」

加えて、南朝には「天皇を国家統合の中心とし、その愛民の精神を文武の官が体して政治を行う」という後醍醐天皇の理想[a]に共鳴して戦い続けた人々が多かった。その一人が北畠親房(ちかふさ)である。

息子・顯家が戦死した後も、50歳に近い年齢にも関わらず、各地で南朝の勢力拡大、足利方との戦闘に奔走した。


吉野を中核に、皇子を各地に派遣して、全国に南朝方のネットワークを創るという雄大な戦略も、親房が編み出したものと言われている。
延元4(1339)年に後醍醐天皇がお隠れになると次代の後村上天皇のために、親房は常陸の小田城(茨城県つくば市)の陣中で筆をとり、我が国の国柄を歴史を通じて説いた『神皇正統記』を書き上げた。歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
__________
『神皇正統記』は彼の学識と情熱とをかたむけて執筆した国史であるとともに、歴史評論であり、その随所に、きびしい道義のことばがほとばしっている。


親房につき従う城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み、正統記の文章にはげまされて勇気を振いおこしては戦つたと伝えられている。[3,p249]
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南北朝史を専門とする村田正志博士は、この書が世の中にどう受けとめられたかを、次のように述べている。
__________
すなわち本書は南朝正統の歴史的理論的根拠を明らかにした書であり、著作された当時、南朝の人々はもとより一般人にも名著として歓迎され、その後室町時代にも重んぜられ、更に近世になってから後は、その学問的、また思想的価値が大いに認められるようになったのである。[4,p129]
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南朝の人々は、後醍醐天皇が率先し、親房が『神皇正統記』で描いた理想によって結ばれていた。

■5.「七生報国」の楠木・新田一族

その志を継承して、南朝方の武将たちが何代にもわたって戦い続けた史実も忘れがたい。
建武3(1336)年、足利尊氏の軍を兵庫・湊川で迎え撃とうとする正成は討死を決意し、11歳の息子・正行(まさつら)を郷里に帰るよう命じて、次のような遺戒を与えた。
__________
正成すでに討死すと聞きなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代に成りぬと心得べし、然(しか)りといへども、一旦(いったん)の身命を助からんために、多年の忠烈を失ひて、降人(こうじん、降伏)に出づる事あるべからず。[5,p210]
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正行はこの言葉通りに、吉野の西の守りを固め、正平3(1348)年、23歳の時に、押し寄せた足利の大軍を四條畷の戦いで破るが、自らも重傷を負い、弟・正時とともに自決する。
後を継いだ三男・正儀(まさのり)も、一時は北朝との和平を訴えて南朝内の立場を失い、やむなく北朝側に立った時期もあったが、その後は南朝側に復帰して戦い続けた。
以降の楠木一族も、元中7(1390)年、永享元(1429)年、同9(1438)年、文安4(1447)年、寛正元(1460)年に足利氏に反逆して討死にした記録が遺っている。1460年と言えば、正成の討死の124年後である。まさに「七生報国」を一族として実践したのである。
新田の一族も、義貞の子ら、そして弟の義助とその子らがみな志を同じくして南朝側に立ち、ほとんど戦死を遂げている。その子孫も、応永16(1409)年頃まで何度か足利氏に反逆して討死にした記録が残っている。
■6.足利一族の内紛、謀略、裏切り

南朝方が一つの志で全国的に結ばれ、かつ何代にもわたって戦い続けたのに対し、足利方は内紛、謀略、裏切りの連続であった。
尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟は専横を極め、尊氏の弟・直義(ただよし)と対立した。直義は正平5(1350)年、南朝に帰順し、その権威と武力を背景に、高兄弟の打倒を図った。
尊氏は高兄弟の側について、直義と戦ったが大敗。高兄弟は負傷し降伏したが、殺されてしまった。尊氏と直義は表面上は和解したが、翌年、不和が生じ、直義が京都から逃れ去ったので、尊氏は追討の兵を上げることとした。
この際、尊氏・義詮(よしあきら)親子は直義を真似て、南朝に降参して、その権威を利用しようとした。南朝方は容易には許さなかったが、尊氏は重ねて奏上し、後村上天皇の親政を願い、京都へのご帰還を請うたので、これを許した。
直義のみならず、尊氏親子まで降伏してきたので、正平6(1351)年、南朝方は北朝を廃止し、偽物とされていた神器も回収した。ここに一度は南北朝の並立という異常事態は解消したのである。各地の南朝軍も振るい立ち、京都も奪回した。
尊氏は南朝の承認を得た上で、鎌倉にのぼり、直義を成敗すると、翌正平7(1352)年、南朝方を裏切って、攻撃をしかけた。諸国の南軍が急ぎ上京して加勢しようとしたが、間に合わなかった。
尊氏・義詮は新たに後光厳天皇を立てたが、今回は偽の神器すらない中での即位となった。さすがにこれでは権威もないと、足利氏三代目の義満が南朝と和平交渉をし、明徳3(1392)年、南朝第4代の後亀山天皇から、北朝第6代の後小松天皇に譲位される形で、神器も北朝に渡されることになった。
和平条件としては、今後、再び、両朝から天皇が交互にお立ちになるという事だったが、義満は神器さえ取り戻せば、と、この合意を踏みにじってしまった。いかにも足利一族らしいやり口である。楠木・新田両一族がこの後も長く戦い続けたのは、この裏切りが原因であった。
■7.足利武士たちの無知と私利私欲

尊皇心、道義心に満ちた南朝方に対して、足利方の皇室軽視と謀略ぶりは鮮やかな対照をなしている。この違いのよって来る所を示す格好のエピソードがある。
足利方の土岐寄遠(とき・よりとお)という武士は、北朝初代天皇であった光厳上皇の行列に出会っても、馬を下りようとしなかった。上皇の先駆けの者が「光厳院がお通りになるのか分からないのか」と叱りつけると、土岐は「院だろうが犬だろうが、そんなこと知るものか、犬ならば射てみよう」と言って、院の輿(こし)に矢を射込ませた。
足利直義はさすがに驚き、土岐を死刑にした。これを聞いた武士たちは大いに恐れ入って、「上皇に出会ってさえ馬から下りなければならないのであれば、両御所(尊氏、直義)に出会ったときは地面に這いつくばらねばいけないのだろうか」とささやき合ったという。[6,p175]
上皇よりも尊氏などの方が偉いと思っている無知ぶりである。『神皇正統記』を戦いの合間に写しては読んだ南朝の武士たちとの違いは著しい。
南朝方と足利方の対照的な生き方を見ると、結局、足利方の武士たちは何ら学問をしていないために、人として信義の大切さも、皇室の伝統的な愛民精神も学ばずに、私利私欲のためだけに内紛、謀略、裏切りに明け暮れていたように思われる。
■8.「精神の美しい輝き」と「私利私欲の紛乱」と

室町幕府は初代・尊氏以降、15代将軍・義昭が織田信長によって京都から追放された元亀4(1573)年まで240年ほども続くが、最初の約60年は南北朝の争いが続き、両朝合一後も各地で乱が絶えることなく、応仁元(1467)年に始まった応仁の乱以降は、全国各地で有力守護大名が戦い合う戦国時代が100年ほども続く。
皇室の愛民精神にも学ばず、道義のかけらもない私利私欲だけの権力者のもとで国が治まるはずもない。室町幕府が権力も権威も失い、戦乱の世が続いたのも当然であった。
『物語日本史』の著者・平泉澄博士は、南朝の活躍した吉野時代57年間と、その後、足利幕府支配の182年間を比較して、次のように述べている。
__________
吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起こすのでありました。


これに反して室町の182年は、紛乱の連続であり、その紛乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした。[5,p245]
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歴史教育が単なる知識の詰め込みではなく、日本国民としての生き方を考えさせる場であるとするならば、生徒にはこういう指摘にも触れさせるべきだろう。
(文責:伊勢雅臣)
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a. JOG(927) 歴史教科書読み比べ(24) 建武の中興
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歴史教科書読み比べ(23): 元寇 ~ 鎌倉武士たちの祖国防衛

2015-09-13 00:32 護国夢想日記
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歴史教科書読み比べ(23): 元寇 ~ 鎌倉武士たちの祖国防衛
フビライの日本侵略の野望を打ち砕いた時宗と鎌倉武士たち。

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■1.「武力を用いるのは朕の本意ではない」

13世紀の初め、チンギス・ハンはモンゴル帝国を建て、無敵の騎馬軍団で中国から、中央アジア、東ヨーロッパまで広がる大帝国を築いた。5代皇帝フビライ・ハンは現在の北京に都を定め、国号を元と称した。
そのフビライが日本への侵略を企てた様子を、自由社版歴史教科書は次のように記述している。
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元寇 フビライは、東アジアへの支配を拡大し、独立を保っていた日本を征服しようと企てた。フビライは、まず日本にたびたび使いを送って、服属するように求めた。しかし、朝廷と鎌倉幕府は一致して、これをはねつけた。幕府は、執権の北条時宗を中心に、元の襲来に備えた。[1,p86]
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この一節の横には、コラムで「フビライの国書(1268年)」を引用している。

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わが祖先が天下を領有して以来、その威を恐れ徳を慕う異国は数え切れない。高麗もわが東の藩属国として、あたかも君臣、父子のようにしている。日本は高麗に近接し、過去には中国と交流していたようだが、朕が即位してからまだ一度も使いをよこさない。武力を用いるのは朕の本意ではない。日本の王は、その点よく考えよ。(「蒙古国牒状」)[1,p86]
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「服属せよ、さもなくば武力征服する」との明らかな最後通牒である。
自由社版では触れていないが、この国書は上段に「大蒙古国皇帝奉書(大蒙古国皇帝は書を奉る)」と書き、その下に小さく「日本国王(日本国王へ)」とあった。皇帝は世界の中心であり、王は皇帝から任じられた一地方の統治者に過ぎない。
時の執権、18歳の北条時宗は「これは無礼な」と眉を逆立てた。「戦さを防ぐためにも、形式的に属国となっては」という声に時宗は「礼なければ仁(おもいやり)なく、仁なき交わりは、禽獣(動物)の交わりにもおよびません」と答えた。[a]
■2.「ユーラシア世界史の誕生」

一方、東京書籍版歴史教科書(東書版)は、モンゴル帝国を「ユーラシア世界史の誕生」というコラムで次のように説明する。
__________
日本は平氏政権の時代から急速に大陸との交流を深めていました。宋銭が国内に出回り、陶磁器が輸入され、僧の行き来もさかんになりました。このように、東アジア世界の交流が活発化していたところに、モンゴル帝国が内陸アジアからやってきたのです。
モンゴル帝国は、東アジアだけでなく、遠くヨーロッパにも影響を与えました。ユーラシア大陸全体が、一つの世界を築き始めることになったと言えます。[2,p59]
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このモンゴル帝国の日本襲来は次のように解説する。
__________
二度の襲来 フビライは日本を従えようと、たびたび使者を送ってきましたが、執権の北条時宗がこれを斥けたために、高麗の軍勢をも合わせて攻め入ってきました。[2,p58]
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この二つを合わせ読むと、「ユーラシア大陸全体が、一つの世界を築き始め」たのに、日本だけがそれへの参加を拒否して、戦争になった、と言いたいようである。

■3.蒙古兵に蹂躙された朝鮮の悲劇

そもそも、モンゴルの侵略ぶりは朝鮮半島だけを見ても次のような過酷なものであった。
__________
朝鮮は二十数年の間、全土を蒙古兵に踏み荒らされたが、とくに大軍の侵略があった1254年には、蒙古兵にとらえられた朝鮮人は男女二十万余、殺された者は数知らず、ひとたび蒙古兵の通ったあとは、村も町もすべて荒廃しつくしたとさえいわれている。[3,p170]
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日本への襲来は「高麗の軍勢も合わせて」というが、このように国土を蹂躙された上、日本への侵略にまで駆り出された高麗兵の悲劇を思いやるべきだ。さらに「ヨーロッパへの影響」とは、ポーランドなど東欧諸国が同様の悲惨な戦いを経て、国土を守ったという事である。
半島の悲惨な状況は、日本にも伝わっていたはずで、フビライに服属すれば、同様の運命が待ち構えていたことは明らかだった。だからこそ、フビライの国書を「朝廷と鎌倉幕府は一致して、これをはねつけた」のである。

こうしたわが先人の危機感に思いを寄せることもなく、「ユーラシア世界史の誕生」などとお花畑的な世界史理論を振り回すのは、国家と子孫のために命懸けで闘った先人の思いを踏みにじるものだ。
 こういう教科書で歴史を学んだ人々が、現在の中国の周辺諸国への軍事拡張主義も目に入らずに、集団的自衛権や沖縄の米軍基地に反対しているのだろう。

■4.「対馬・壱岐をへて」

元の襲来について東書版はこう述べる。
_________
1274(文永11)年には、対馬・壱岐をへて北九州博多湾に上陸し、集団戦法と優れた火器により、日本軍を悩ましたすえ、引き上げました(文永の役)。[1,p58]
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「対馬・壱岐をへて」とは、途中に立ち寄ったに過ぎないような書きぶりだが、渡部昇一の『日本の歴史 2』では具体的に次のように記述している。
__________
元(蒙古)軍はおよそ4万人、そのうち八千人は高麗兵である。朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出港した元軍は、対馬を襲い、残虐の限りをつくして全島を奪った。対馬守宗助国(そうすけくに)はわずか八十騎を率いて迎え撃ったが、無残に玉砕した。
続いて元軍は壱岐に上陸。守護代平景隆(かげたか)も大軍に抗しきれず自決。その家族も皆殺しにされた。これらの惨状は、明治時代の画家、矢田一嘯(いっしょう)が迫力のある大パノラマ画に描いている。
元寇については戦後あまり語られなくなったが、われわれの子供の頃は「対馬・壱岐の女子供が手に穴をあけられて船べりに吊された」といったような、悲惨な話を聞かされたものである。[4,p101]
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文永の役の翌年、フビライから何度も使者が来て、幕府内でも「和を結んでは」との声があがったが、時宗は「対馬、壱岐の無辜の民を多く殺害したその暴を詫びぬとあれば、それは人間の道ではござらぬ」と言い切っている。[a]
■5.「日本軍を悩ましたすえ、引き上げました」

対馬・壱岐を蹂躙した後、博多湾に上陸した元軍は「日本軍を悩ましたすえ、引き上げました」と東書版は言うが、なぜ引き上げたのかが、説明されていない。
高麗側の記録では、総司令官の忻都(きんと)は「疲れた兵をもって日ごとにふえる敵軍と戦おうとするのは、正しい作戦とはいえない」と言って、退却を決めたとしている。一日だけの戦いだったが、鎌倉武士の勇戦で、勝ち目はないと判断したのである。[a]

幕府側も、いったん蒙古軍の上陸を許すと、陸上戦では不利である事が判って、執権時宗は博多湾の沿岸十数キロに渡って石塁を築かせた。また御家人たちが自分ひとりの勲功を揚げようと、勝手な抜け駆けをしたことが、統制のとれなかった原因だとして、時宗は鎮西奉行を置き、その統制のもとで一致協力して戦いに臨むよう、通達を出した。
7年後の弘安4(1281)年、元は二度目の軍勢を送り出した。この間に元は南宋をも滅ぼしていたので、今回は、蒙古・漢・高麗兵4万からなる東路軍に加えて、水軍に長けた南宋人10万からなる江南軍も編成されて、前回の数倍もの大軍であった。日本占領後の農業用具までも持参していた。
■6.「神風」と「独立」
 弘安の役に関して、東書版は、こう説明する。
__________
1281(弘安4)年には、ふたたび攻めてきましたが、御家人の活躍や、海岸に築かれた石塁などの防備もあって、元の大軍は上陸できないまま、暴風雨にあって大損害を受け、退きました。[2,p58]
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この記述は正確である。元寇は「神風」だけで勝った、という先入観があるが、史実は鎌倉武士たちの抵抗で、元軍は2ヶ月近くも上陸できずに海上におり、そこを台風が襲ったのである。[a]
 自由社版は、2度の戦役をまとめて、こう解説している。
__________
元・高麗連合軍は、1274(文永11)年と、7年後の1281(弘安4)年の2回にわたって、大船団を仕立てて日本をおそった。日本側は、略奪と残虐な暴行の被害を受け、新規な兵器にも悩まされた。しかし、鎌倉武士は、これを国難として受けとめ、よく戦った。

元軍は、のちに「神風」とよばれた暴風雨にもおそわれて、敗退した。こうして日本は、独立を保つことができた。この2度にわたる元軍の襲来を、元寇という。[1,p87]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「鎌倉武士は、これを国難として受けとめ、よく戦った」とは、その通りだが、その戦い振りをもう少し具体的に記述しないと、中学生には伝わらないだろう。
ただ、「神風」についての言及は大事である。この国難を救った暴風雨を以後、「神風」と感謝した先人たちの心映えを偲ぶべきだ。また大東亜戦争での「神風特攻隊」も、祖国を守る神風にならんとする思いから名付けられたものである。日本人の精神史を辿る上で、「神風」の出てこない東書版の記述は、重大な欠陥と言うべきだろう。

さらに自由社版の言う「こうして日本は、独立を保つことができた」という視点が、東書版には欠落している。元寇は我が国の独立維持のための戦いだった事を、中学生には教えなくてはならない。
■7.フビライの野望を挫いたもの

東書版は、元寇の項を次の文章で結ぶ。
__________
この二度の襲来(元寇)のあとも、元は日本への遠征を行おうとしましたが、計画だけで終わりました。[2,p59]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
なぜ、計画だけで終わったのか、これまた大事な事が書かれていない。フビライは、その後も繰り返し、日本への遠征を命じ、その都度、高麗は大量の軍船や兵員の準備を命ぜられた。
しかし、二度の日本遠征により、元の財政は破綻し、一般民衆は疲弊して、ベトナムや江南では反乱が相次いだ。弘安の役の12年後、日本を脅した最初の国書を送ってから25年後の1293年、フビライは日本遠征への最後の命令を下したが、一高官が命をかけて反対したため、中止となった。
フビライはその年明けに80歳で日本征服の野望を果たせぬまま病没する。結局、3度目の遠征を諦めさせ、フビライの野望を抑止したのは、鎌倉武士たちの勇戦だった。
■8.「かまくら山の松の嵐」

渡部昇一は、元寇が執権・北条時宗の時代であったことが、幸いだったと言う。

__________
日本中が上も下も不安に包まれているとき、鎌倉にすわったままでいる青年武将を見て武士たちは大きな山を仰いだような気がしたという。・・・
青年時宗の精神力は日本中の武士たちに電流のように通じた。もし総大将に少しでも動揺の色があれば、鎮西の武士たちもあれほど勇敢には戦えなかったであろう。[4,p105]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
時宗はフビライから国書が来た2ヶ月後に、わずか18歳で執権となった。そして2度の国難を乗り切り、弘安の役のわずか3年後に数え34歳の若さで病没してしまう。「まことに元寇から国を守るために生まれてきたような武将であった」と渡部昇一は表している。
昭憲皇太后(明治天皇の皇后)は次のお歌を詠まれている。
あだ波は ふたたび寄せずなりにけり かまくら山の 松の嵐に
あだ波を寄せ返した「かまくら山の松の嵐」とは時宗と鎌倉武士たちの国と子孫を守るための戦いであったろう。神頼みの暴風雨ではなく、鎌倉武士たちの国家と子孫を守ろうとする意思こそが「神風」であった、と皇太后は詠まれているのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(207) 元寇 ~鎌倉武士たちの「一所懸命」
蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を惜しまない鎌倉武士たちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog207.html
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2.五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み
3. 安田元久『日本の歴史文庫(7) 鎌倉武士』★★★、講談社、S50
4.渡部昇一『「日本の歴史」〈第2巻〉中世篇―日本人のなかの武士と天皇』★★★、ワック、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/
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歴史教科書読み比べ(20):源平合戦と「錦の御旗」

2015-03-29 04:12 護国夢想日記

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■1.皇室の登場しない「源平の争乱」

本シリーズ前稿『保元の乱と乱世の始まり』[a]で述べた保元・平治の乱により武士階級が力を得て、その中でも平清盛を中心に「平氏にあらずんば人にあらず」(平氏の一族でない者は人ではない)というほどの栄華を実現した。
その平氏が源氏に滅ぼされる過程を、自由社版では「源平合戦と平氏の滅亡」の項で、次のように説明している。
__________
しかし、平氏の栄華も長くは続かなかった。平氏はやがて後白河上皇との対立を深め、上皇の院政を停止して、清盛の娘が産んだ1歳の安徳天皇を皇位につけた。


後白河上皇の皇子である以仁王(もちひとおう)がこれに反発し、平氏の追討をよびかけた。これにこたえて、平氏の支配に不満を持つ武士が、各地で次々と兵をあげた。
平治の乱で討たれた源義朝の子・頼朝は、鎌倉を拠点として関東の武士と主従関係を結び、しだいに力をたくわえていた。頼朝は朝廷の命を受けて弟の義経らを派遣し、平氏の追討に向かわせた。
義経は、幼い安徳天皇とともに都から落ちのびていた平氏を、各地の合戦で討ち、1185(文治元)年、ついに壇ノ浦でほろぼした。これら、源氏と平氏の一連の戦いを、源平合戦とよぶ。[1,p81]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
東京書籍版では「源平の争乱」と題して、こう書く。

__________
栄華をほこった平氏でしたが、朝廷の政治を思うままに動かし始めたため、貴族や寺社の反感を招き、地方の武士のなかにも、平氏のやり方に不満をいだく者が増えました。やがて反感が高まり、諸国の武士が兵をあげました。
なかでも源頼朝は、鎌倉を本拠地に定め、東国の武士を結集して関東を支配下に入れ、弟の義経を派遣して、平氏を追いつめ、壇ノ浦(下関市)でほろぼしました。[1,p52]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
まず気がつくのは、東書版では白河上皇も安徳天皇も以仁王も登場しないことである。すなわち皇室の存在はすべて無視している。


したがって「やがて反感が高まり、諸国の武士が兵をあげました」と、さも勝手に反乱が起こったかのように書いている。どちらが史実に近いのか、もう少し史実を見てみよう。
■2.平家追討の大義を与えた以仁王の令旨

事の発端は、平清盛が武力をもって後白河法皇に院政の廃止を迫って鳥羽殿に幽閉し、さらに関白藤原基房(もとふさ)を備前に、太政大臣藤原師長(もろなが)を尾張に流し、そのうえ20歳の高倉天皇を譲位させて、自分の娘が産んだわずか1歳の安徳天皇を皇位につけたことだった。
 法皇の第二皇子以仁王は、この傍若無人を許すまじと「平家追討の令旨(りょうじ)」を全国に雌伏していた源氏に発する。「令旨」とは親王などからの呼びかけである。
以仁王は緒戦で流れ矢に当たって亡くなってしまうのだが、この事は厳重に秘匿された。平家は以仁王の死を確認できず、そのために令旨はその後も全国の源氏を立ち上がらせたのであった。
伊豆に流されていた源頼朝のもとにも令旨が伝えられた。
__________
 頼朝は衣服を改め、はるかに男山八幡宮の方を拝んだ後、謹んで令旨を拝見しました。[3,p82]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
頼朝の敬虔な態度から、当時の人々にとって令旨がどれほどの権威を持つものであったかが窺える。
頼朝は妻・政子の父親、北条時政にどうすべきか相談したが、そのうちに「令旨の件が京都で露見し、令旨を受け取った諸国の源氏追討の命令が下った。


そちらにも手が回るから、奥州の藤原氏を頼って逃げるように」という手紙を受け取った。しかし、頼朝は逃げずに立ち上がる。
令旨は、全国の源氏一族に平家討伐への大義を与えた。令旨がなければ、いくら不満があって立ち上がっても、それは公義に対する反乱でしかない。逆に、令旨を受け取った全国の源氏を先手をうって討伐しようとした平家の姿勢にも、令旨の権威への恐れを見ることができる。
こう考えれば、東書版の「やがて反感が高まり、諸国の武士が兵をあげました」と令旨に言及しない記述が、いかに歴史の真実を覆い隠したものか、よく分かるだろう。

■3.「さすがに源氏の棟梁」

頼朝は父義朝の時代から縁故のある関東の豪族たちに挙兵を呼びかけた。緒戦で伊豆を支配している山木兼高を討ったものの、続く相模国石橋山(現小田原市)の戦いでは平家の大軍に敗れる。
頼朝は船で房総に逃れ、安房(現千葉県)であらためて源氏の兵を集めた。ここに上総の平広常(たいらのひろつね)が2万の大軍を引き連れて、遅ればせながら参陣した。
広常は房総にいた平氏の頭首で東国での最大の勢力を持っていた。保元・平治の乱で破れた源義朝の側についていたため、平清盛とは対立関係にあった。


頼朝の挙兵に馳せ参じたが、場合によっては頼朝を討って自ら平家討伐のリーダーになろうと二心を抱いていた。
広常は、関東最大の勢力を持つ自分が来たことで、敗走中の頼朝はさぞ有り難がるだろうと思っていたら、頼朝は逆に「なぜいまごろ来たのか」と怒鳴りつけた。


広常は「さすがに源氏の棟梁。これは大物だ」と感じ入って、忠誠を誓う。

頼朝は父・義朝から「源太の産着」を着せられている。源太とは頼朝よりも100年も前の先祖、源八幡太郎義家で、その義家が2歳にして天皇に拝謁した時、武家だからということで、産着として鎧をつけた。これが「源太の産着」と呼ばれ、この鎧を受け継いだ者が、源氏の正統の後継者とされていた。
そもそも源氏はさらに3百年も前の嵯峨天皇や清和天皇を祖としており皇室の血を引いている


その源氏の中でも皇室ゆかりの「源太の産着」を着せられた正統な棟梁が、いま皇室から「平家追討の令旨」を戴いて立ち上がった。言わば、頼朝は皇室から「錦の御旗」を与えられた官軍の頭領となった。
頼朝が、広常を「なぜいまごろ来たのか」と怒鳴りつけたのは、その器量もさることながら、この正統性があればこそなのである。
■4.「後白河法皇を一緒に連れて行くのを忘れていた」

治承4(1180)年10月20日、頼朝の大軍と平家の軍勢は富士川で相まみえたが、頼朝軍の一部が夜襲をかけようと近づいたところ、富士川の多くの水鳥が騒ぎ、その羽音を聞いた平家の軍勢は、慌てふためいて逃げ出してしまう。
しかし、頼朝は東国の鎮定が先決と関東から動かない。その隙に、同じく以仁王の令旨を受けて信濃で挙兵した従兄弟の源(木曾)義仲が京都に攻め込む


病死していた清盛の後を継いだ三男宗盛(むねもり)は、幼少の安徳天皇を奉じ、三種の神器とともに九州筑前に落ちていった。この行動を、渡部昇一はこう評する。
__________
都を落ちるときに幼い安徳天皇を奉じ、三種の神器を持っていったのはいいとして、後白河法皇を一緒に連れて行くのを忘れていた。法皇は官軍の印(後に言う「錦の御旗」)を与えることのできる存在である。
だから法皇も一緒であれば、九州の武士たちもみんな文句なく平家の味方についたであろう。ところが京都に残った後白河法皇は源氏に平家追討の院宣(いんぜん)を出したものだから、平家のほうが朝敵となってしまった。[4,p72]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■5.平家追討の院宣

京都に入った義仲に、後白河法皇は平家追討の宣旨を下した。しかし、5万の兵で京都に入った義仲軍は食料もないため、ただでさえ飢饉に喘いでいる京都で略奪を行った。
法皇は自ら義仲を討つ決心をし、延暦寺と園城寺に詔勅を下して、御所である法住寺殿を武装した。義仲は法住寺殿を焼き払い、後白河法皇を捕らえて幽閉する。


しかし、法皇は義仲追討の宣旨を頼朝に下しており、頼朝は範頼・義経の大軍を京に送って、義仲軍を滅ぼした。
今度は範頼と義経に平家追討の院宣が下った。ここから須磨の断崖絶壁をわずか70騎の馬で駆け下りて平家陣営を壊乱せしめた「鵯越の逆落とし」、四国・屋島での奇襲など、義経の英雄譚が生まれる。
追いつめられた平家は関門海峡の壇ノ浦で義経の水軍を迎え撃つ。義経方は平家を滅ぼすだけでなく、三種の神器を奪い返さねばならない。


義経の果敢な戦いで壊滅状態となった平氏の人々は次々と海に身を投じた。数え年6歳の安徳天皇は、祖母にあたる二位尼(にいのあま、清盛の正室)に抱かれたまま海に飛び込む。
三種の神器も海中に没し、鏡と曲玉は回収されたものの、剣はついに見つからなかった。しかし、これは儀式用の形代(かたしろ、複製品)で、本物は熱田神宮に奉納されていたという。
__________
平家が安徳天皇を抱えているのに対し、源氏は後白河法皇を奉じて大義名分を得たのである。もし平家が後白河法皇まで抱え込んでいたら、いくら頼朝でも追討することは不可能だった。このことは日本の歴史を理解するうえで非常に重要だと思う。[4,p74]
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こうして以仁王の平氏追討の令旨で源氏が立ち上がり、後白河法皇の院宣で頼朝の天下が定まった。

■6.中国大陸での戦いだったら

こういう史実を一切、無視して、以仁王も後白河法皇も登場させずに、単なる豪族間の武力闘争のように源平の合戦を描く東書版の記述は、「日本の歴史を理解するうえで非常に重要」と渡部昇一の言うわが国の真実の姿を伝えていない。
東書版のように皇室がいっさい登場しないのでは、まるで中国での戦いのようだ。源平の合戦が、仮に中国大陸で行われたと仮定してみよう。
平広常は2万の軍勢を持っていたのだから、当然、頼朝が源氏の棟梁だとか、以仁王の令旨を受けている点などは無視して、頼朝を殺し、その軍勢を吸収して、政権奪取の戦いに名乗りを上げただろう。
また、木曾義仲は後白河法皇を幽閉するような手ぬるいやり方ではなく亡き者として、京都での恐怖政治を続けたろう。となると、関東は平広常、京都は木曾義仲、西日本は平氏という、まさに「三国志」の世界が現出し、互いに相手を滅ぼすまで、徹底的な戦いが続いたはずだ。その間、民の苦しみは続く。
■7.「錦の御旗」で速やかな統一回復

日本の歴史では、統治者の交替と国内統一の回復は速やかに進む。頼朝が令旨を得たのが治承4(1180)年、国内を平定して征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開いたのが建久3(1192)年と、わずか12年で国内の統一を回復している。

この速やかな変革は、皇室の与えた「錦の御旗」があったればこそであろう。清和天皇の血を引く源氏の棟梁という権威、さらに以仁王の令旨や後白河法皇の院宣を与えられたという正統性が、国内の様々な豪族、貴族、寺社などを納得させて、統一政権を誕生させたのである。
皇室の「錦の御旗」で内乱が短期間に終わって、統一が速やかに回復するという現象は、明治維新の際にも見られた。

江戸幕府が行き詰まって大政奉還、すなわち将軍が天皇に委託されてきた統治権を返上したのが慶応3(1867)年。薩長が「錦の御旗」を得た官軍として戊辰戦争や西南戦争を経て、近代的統一国家として出発したのが明治10(1877)年。この間、わずか10年である
皇室による「錦の御旗」は国内が分裂した際にも、その向かうべき方向を明らかにし、多くの勢力をそれに向けて集めることで、国内の統一と安定を速やかに回復する統合力を発揮するのである。
■8.「錦の御旗」と日本の国柄

国家を幕府なり政権という「統治者」と、その基盤となる「国民共同体」と2層に考えてみると、「錦の御旗」の持つ意味が理解しやすいだろう。わが国においては「錦の御旗」を得た統治者は、国民共同体の承認を得る。
現代の民主主義は、統治者を多数決で決めるためのルールであるが、その基盤となる国民共同体がまとまっていないと機能しない。


たとえば民族間の内戦で疲弊した地域に、国連が介入して選挙を実施しても、負けた方が選挙は無効だなどといって、収まらない場合も多い。
また中国のように共産党という統治者が力で国民共同体を押さえつけているような国では、そもそも自由選挙などは認めない。
さいわい、わが国は皇室を中心として安定した国民共同体を維持してきた歴史伝統があるので、自由選挙によって政権を選ぶ、という民主主義のルールも機能しやすい。
そして多数決で選ばれた政権が国民統合の象徴たる天皇に任命される。この親任式は国民共同体がその政権に正統性を与えることの象徴である。いわば現代の「錦の御旗」なのだ。
 統治者の選び方は時代ごとに変わっても、天皇から任命された政権が国民共同体の支持を得て政治を行う、という日本の歴史伝統は有史以来変わってない。だから、皇室の登場しない「源平の合戦」では、日本の歴史になっていないのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(886) 歴史教科書読み比べ(19):保元の乱と乱世の始まり
上皇と天皇が争った保元の乱が、乱世の始まりだった。
http://blog.jog-net.jp/201502/article_3.html
b. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog082.html
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歴史教科書読み比べ(20):源平合戦と「錦の御旗」

2015-03-29 04:12 護国夢想日記

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■1.皇室の登場しない「源平の争乱」

本シリーズ前稿『保元の乱と乱世の始まり』[a]で述べた保元・平治の乱により武士階級が力を得て、その中でも平清盛を中心に「平氏にあらずんば人にあらず」(平氏の一族でない者は人ではない)というほどの栄華を実現した。
その平氏が源氏に滅ぼされる過程を、自由社版では「源平合戦と平氏の滅亡」の項で、次のように説明している。
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しかし、平氏の栄華も長くは続かなかった。平氏はやがて後白河上皇との対立を深め、上皇の院政を停止して、清盛の娘が産んだ1歳の安徳天皇を皇位につけた。


後白河上皇の皇子である以仁王(もちひとおう)がこれに反発し、平氏の追討をよびかけた。これにこたえて、平氏の支配に不満を持つ武士が、各地で次々と兵をあげた。
平治の乱で討たれた源義朝の子・頼朝は、鎌倉を拠点として関東の武士と主従関係を結び、しだいに力をたくわえていた。頼朝は朝廷の命を受けて弟の義経らを派遣し、平氏の追討に向かわせた。
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栄華をほこった平氏でしたが、朝廷の政治を思うままに動かし始めたため、貴族や寺社の反感を招き、地方の武士のなかにも、平氏のやり方に不満をいだく者が増えました。やがて反感が高まり、諸国の武士が兵をあげました。
なかでも源頼朝は、鎌倉を本拠地に定め、東国の武士を結集して関東を支配下に入れ、弟の義経を派遣して、平氏を追いつめ、壇ノ浦(下関市)でほろぼしました。[1,p52]
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まず気がつくのは、東書版では白河上皇も安徳天皇も以仁王も登場しないことである。すなわち皇室の存在はすべて無視している。


したがって「やがて反感が高まり、諸国の武士が兵をあげました」と、さも勝手に反乱が起こったかのように書いている。どちらが史実に近いのか、もう少し史実を見てみよう。
■2.平家追討の大義を与えた以仁王の令旨

事の発端は、平清盛が武力をもって後白河法皇に院政の廃止を迫って鳥羽殿に幽閉し、さらに関白藤原基房(もとふさ)を備前に、太政大臣藤原師長(もろなが)を尾張に流し、そのうえ20歳の高倉天皇を譲位させて、自分の娘が産んだわずか1歳の安徳天皇を皇位につけたことだった。
 法皇の第二皇子以仁王は、この傍若無人を許すまじと「平家追討の令旨(りょうじ)」を全国に雌伏していた源氏に発する。「令旨」とは親王などからの呼びかけである。
以仁王は緒戦で流れ矢に当たって亡くなってしまうのだが、この事は厳重に秘匿された。平家は以仁王の死を確認できず、そのために令旨はその後も全国の源氏を立ち上がらせたのであった。
伊豆に流されていた源頼朝のもとにも令旨が伝えられた。
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 頼朝は衣服を改め、はるかに男山八幡宮の方を拝んだ後、謹んで令旨を拝見しました。[3,p82]
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頼朝の敬虔な態度から、当時の人々にとって令旨がどれほどの権威を持つものであったかが窺える。
頼朝は妻・政子の父親、北条時政にどうすべきか相談したが、そのうちに「令旨の件が京都で露見し、令旨を受け取った諸国の源氏追討の命令が下った。


そちらにも手が回るから、奥州の藤原氏を頼って逃げるように」という手紙を受け取った。しかし、頼朝は逃げずに立ち上がる。
令旨は、全国の源氏一族に平家討伐への大義を与えた。令旨がなければ、いくら不満があって立ち上がっても、それは公義に対する反乱でしかない。逆に、令旨を受け取った全国の源氏を先手をうって討伐しようとした平家の姿勢にも、令旨の権威への恐れを見ることができる。
こう考えれば、東書版の「やがて反感が高まり、諸国の武士が兵をあげました」と令旨に言及しない記述が、いかに歴史の真実を覆い隠したものか、よく分かるだろう。

■3.「さすがに源氏の棟梁」

頼朝は父義朝の時代から縁故のある関東の豪族たちに挙兵を呼びかけた。緒戦で伊豆を支配している山木兼高を討ったものの、続く相模国石橋山(現小田原市)の戦いでは平家の大軍に敗れる。
頼朝は船で房総に逃れ、安房(現千葉県)であらためて源氏の兵を集めた。ここに上総の平広常(たいらのひろつね)が2万の大軍を引き連れて、遅ればせながら参陣した。
広常は房総にいた平氏の頭首で東国での最大の勢力を持っていた。保元・平治の乱で破れた源義朝の側についていたため、平清盛とは対立関係にあった。


頼朝の挙兵に馳せ参じたが、場合によっては頼朝を討って自ら平家討伐のリーダーになろうと二心を抱いていた。
広常は、関東最大の勢力を持つ自分が来たことで、敗走中の頼朝はさぞ有り難がるだろうと思っていたら、頼朝は逆に「なぜいまごろ来たのか」と怒鳴りつけた。


広常は「さすがに源氏の棟梁。これは大物だ」と感じ入って、忠誠を誓う。

頼朝は父・義朝から「源太の産着」を着せられている。源太とは頼朝よりも100年も前の先祖、源八幡太郎義家で、その義家が2歳にして天皇に拝謁した時、武家だからということで、産着として鎧をつけた。これが「源太の産着」と呼ばれ、この鎧を受け継いだ者が、源氏の正統の後継者とされていた。
そもそも源氏はさらに3百年も前の嵯峨天皇や清和天皇を祖としており皇室の血を引いている


その源氏の中でも皇室ゆかりの「源太の産着」を着せられた正統な棟梁が、いま皇室から「平家追討の令旨」を戴いて立ち上がった。言わば、頼朝は皇室から「錦の御旗」を与えられた官軍の頭領となった。
頼朝が、広常を「なぜいまごろ来たのか」と怒鳴りつけたのは、その器量もさることながら、この正統性があればこそなのである。
■4.「後白河法皇を一緒に連れて行くのを忘れていた」

治承4(1180)年10月20日、頼朝の大軍と平家の軍勢は富士川で相まみえたが、頼朝軍の一部が夜襲をかけようと近づいたところ、富士川の多くの水鳥が騒ぎ、その羽音を聞いた平家の軍勢は、慌てふためいて逃げ出してしまう。
しかし、頼朝は東国の鎮定が先決と関東から動かない。その隙に、同じく以仁王の令旨を受けて信濃で挙兵した従兄弟の源(木曾)義仲が京都に攻め込む


病死していた清盛の後を継いだ三男宗盛(むねもり)は、幼少の安徳天皇を奉じ、三種の神器とともに九州筑前に落ちていった。この行動を、渡部昇一はこう評する。
__________
都を落ちるときに幼い安徳天皇を奉じ、三種の神器を持っていったのはいいとして、後白河法皇を一緒に連れて行くのを忘れていた。法皇は官軍の印(後に言う「錦の御旗」)を与えることのできる存在である。
だから法皇も一緒であれば、九州の武士たちもみんな文句なく平家の味方についたであろう。ところが京都に残った後白河法皇は源氏に平家追討の院宣(いんぜん)を出したものだから、平家のほうが朝敵となってしまった。[4,p72]
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■5.平家追討の院宣

京都に入った義仲に、後白河法皇は平家追討の宣旨を下した。しかし、5万の兵で京都に入った義仲軍は食料もないため、ただでさえ飢饉に喘いでいる京都で略奪を行った。
法皇は自ら義仲を討つ決心をし、延暦寺と園城寺に詔勅を下して、御所である法住寺殿を武装した。義仲は法住寺殿を焼き払い、後白河法皇を捕らえて幽閉する。


しかし、法皇は義仲追討の宣旨を頼朝に下しており、頼朝は範頼・義経の大軍を京に送って、義仲軍を滅ぼした。
今度は範頼と義経に平家追討の院宣が下った。ここから須磨の断崖絶壁をわずか70騎の馬で駆け下りて平家陣営を壊乱せしめた「鵯越の逆落とし」、四国・屋島での奇襲など、義経の英雄譚が生まれる。
追いつめられた平家は関門海峡の壇ノ浦で義経の水軍を迎え撃つ。義経方は平家を滅ぼすだけでなく、三種の神器を奪い返さねばならない。


義経の果敢な戦いで壊滅状態となった平氏の人々は次々と海に身を投じた。数え年6歳の安徳天皇は、祖母にあたる二位尼(にいのあま、清盛の正室)に抱かれたまま海に飛び込む。
三種の神器も海中に没し、鏡と曲玉は回収されたものの、剣はついに見つからなかった。しかし、これは儀式用の形代(かたしろ、複製品)で、本物は熱田神宮に奉納されていたという。
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平家が安徳天皇を抱えているのに対し、源氏は後白河法皇を奉じて大義名分を得たのである。もし平家が後白河法皇まで抱え込んでいたら、いくら頼朝でも追討することは不可能だった。このことは日本の歴史を理解するうえで非常に重要だと思う。[4,p74]
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こうして以仁王の平氏追討の令旨で源氏が立ち上がり、後白河法皇の院宣で頼朝の天下が定まった。

■6.中国大陸での戦いだったら

こういう史実を一切、無視して、以仁王も後白河法皇も登場させずに、単なる豪族間の武力闘争のように源平の合戦を描く東書版の記述は、「日本の歴史を理解するうえで非常に重要」と渡部昇一の言うわが国の真実の姿を伝えていない。
東書版のように皇室がいっさい登場しないのでは、まるで中国での戦いのようだ。源平の合戦が、仮に中国大陸で行われたと仮定してみよう。
平広常は2万の軍勢を持っていたのだから、当然、頼朝が源氏の棟梁だとか、以仁王の令旨を受けている点などは無視して、頼朝を殺し、その軍勢を吸収して、政権奪取の戦いに名乗りを上げただろう。
また、木曾義仲は後白河法皇を幽閉するような手ぬるいやり方ではなく亡き者として、京都での恐怖政治を続けたろう。となると、関東は平広常、京都は木曾義仲、西日本は平氏という、まさに「三国志」の世界が現出し、互いに相手を滅ぼすまで、徹底的な戦いが続いたはずだ。その間、民の苦しみは続く。
■7.「錦の御旗」で速やかな統一回復

日本の歴史では、統治者の交替と国内統一の回復は速やかに進む。頼朝が令旨を得たのが治承4(1180)年、国内を平定して征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開いたのが建久3(1192)年と、わずか12年で国内の統一を回復している。

この速やかな変革は、皇室の与えた「錦の御旗」があったればこそであろう。清和天皇の血を引く源氏の棟梁という権威、さらに以仁王の令旨や後白河法皇の院宣を与えられたという正統性が、国内の様々な豪族、貴族、寺社などを納得させて、統一政権を誕生させたのである。
皇室の「錦の御旗」で内乱が短期間に終わって、統一が速やかに回復するという現象は、明治維新の際にも見られた。

江戸幕府が行き詰まって大政奉還、すなわち将軍が天皇に委託されてきた統治権を返上したのが慶応3(1867)年。薩長が「錦の御旗」を得た官軍として戊辰戦争や西南戦争を経て、近代的統一国家として出発したのが明治10(1877)年。この間、わずか10年である
皇室による「錦の御旗」は国内が分裂した際にも、その向かうべき方向を明らかにし、多くの勢力をそれに向けて集めることで、国内の統一と安定を速やかに回復する統合力を発揮するのである。
■8.「錦の御旗」と日本の国柄

国家を幕府なり政権という「統治者」と、その基盤となる「国民共同体」と2層に考えてみると、「錦の御旗」の持つ意味が理解しやすいだろう。わが国においては「錦の御旗」を得た統治者は、国民共同体の承認を得る。
現代の民主主義は、統治者を多数決で決めるためのルールであるが、その基盤となる国民共同体がまとまっていないと機能しない。


たとえば民族間の内戦で疲弊した地域に、国連が介入して選挙を実施しても、負けた方が選挙は無効だなどといって、収まらない場合も多い。
また中国のように共産党という統治者が力で国民共同体を押さえつけているような国では、そもそも自由選挙などは認めない。
さいわい、わが国は皇室を中心として安定した国民共同体を維持してきた歴史伝統があるので、自由選挙によって政権を選ぶ、という民主主義のルールも機能しやすい。
そして多数決で選ばれた政権が国民統合の象徴たる天皇に任命される。この親任式は国民共同体がその政権に正統性を与えることの象徴である。いわば現代の「錦の御旗」なのだ。
 統治者の選び方は時代ごとに変わっても、天皇から任命された政権が国民共同体の支持を得て政治を行う、という日本の歴史伝統は有史以来変わってない。だから、皇室の登場しない「源平の合戦」では、日本の歴史になっていないのである。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(886) 歴史教科書読み比べ(19):保元の乱と乱世の始まり
上皇と天皇が争った保元の乱が、乱世の始まりだった。
http://blog.jog-net.jp/201502/article_3.html
b. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog082.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/
2. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み
3. 平泉澄『物語日本史(中)』★★★、講談社学術文庫、S54
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4061583492/japanontheg01-22/
4.渡部昇一『「日本の歴史」〈第2巻〉中世篇―日本人のなかの武士と天皇』★★★、ワック、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/

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