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1.4k 日本の歴史文庫〈8〉南北朝と室町 (1975年)


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レビュー記事

渡部亮次郎氏のメルマガ「頂門の一針」(4月26日)より転載(部分)

2016-04-26 16:24 koreyasublog
━━━━━━━
足利義満の野望
━━━━━━━
 
 伊勢 雅臣
 
■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」
 
東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室 町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
 
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14

世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

 
室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収して いき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 

この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸 宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。

 

足利義満(13581408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りまし た。[1,p71]

 

そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から、後醍醐天 皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ。南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したもの だった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。

 
 
■2.「臣下として屈従する姿勢」
 

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収し て統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。

 

他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、 明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国 王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。 [2,p95]

 

冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命 書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。

 
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明 する。
 

明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のために は、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。義満は明の皇帝 にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任 命された。

 

「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもの で、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]

 
 
 
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」
 
義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
 
応永(JOG: 13941427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こ ちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永 8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。 [3,p379]
 

義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送 り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした。「朕大位を嗣ぐ より、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊 大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。

 

これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して 貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求め た文書である。

 

この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘す るところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。 [3,p381]

 
 
 
■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交
 
 義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したも のであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
 

こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき と同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。起草 者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、 日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]

 
 

「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交 を指す[4,p78]。聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の 天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]

 

義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにする ものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

 
 
■5.「公武を統合した日本全体の代表者」
 
村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
 

その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛 盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると 自負していたからであった。[4,266]

 
 

「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍と ともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。

 

 たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。その日、 義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人 数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。

 

 18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼 食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 
 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢 さを義満は恥じなかった。
 
 
■6.皇位の簒奪まであと一歩
 
村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負し ていた」という点は、次のような事実から窺える。
 

北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位し たがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振 る舞いをした。

 

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代 の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であった らしい。しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとり あげ、南北朝の合一を実現した。

 

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」に するという詔書を貰っている。妻が天皇の母代わりになれば、その夫であ る自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

 

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもと に、親王と同じ次第で元服式を行った。そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。

 

ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるま で、あと一歩であった。そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。

 

しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を 引いている、という自負があったようだ。母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。男系の女子なら皇位についた前例が あるが、女系では皇位につけない。[c]

 

女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力 者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。義満はそうと知っていても、自らの野望を実現す るために、それを無視したのだろう。

 
 
■7.義満の死による「天佑神助」
 
ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が 急に咳(せ)き込み、発病したのである。10
 
日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
 

これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで 偶然だろう。いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩と いうところで実現せずに終わったのである。

 
 
・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。
 

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした 義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]

 
 

もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまってい た。そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。

 

 しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴 史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。

 

権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多 くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。

 
 
■8.反面教師・義満
 

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。 鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満 は法皇そのものの称号を贈られたのである。

 

しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち) は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘 も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。将軍でありながら、公家も 牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。

 
義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿 易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。
 

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再 開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。

 

将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争い を繰り広げるようになる。播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上 で暗殺するという事件を起こした。この後、足利将軍家は形だけの存在と なり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。

 

以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この2つは、わが 国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、 将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師な のである。

 
 東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義 満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
 
 
 
■リンク■
 
a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け 暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
 
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html
 
c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html
 
 
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
 →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
 
1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27
 

2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、自由社、H27

http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237834/japanontheg01-22/
 
3. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETF4/japanontheg01-22/
 
4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
 
5. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇」★★★、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/
 
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渡部亮次郎氏のメルマガ「頂門の一針」(4月26日)より転載(部分)

2016-04-26 16:24 koreyasublog
━━━━━━━
足利義満の野望
━━━━━━━
 
 伊勢 雅臣
 
■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」
 
東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室 町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
 
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14

世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

 
室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収して いき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 

この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸 宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。

 

足利義満(13581408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りまし た。[1,p71]

 

そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から、後醍醐天 皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ。南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したもの だった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。

 
 
■2.「臣下として屈従する姿勢」
 

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収し て統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。

 

他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、 明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国 王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。 [2,p95]

 

冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命 書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。

 
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明 する。
 

明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のために は、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。義満は明の皇帝 にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任 命された。

 

「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもの で、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]

 
 
 
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」
 
義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
 
応永(JOG: 13941427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こ ちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永 8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。 [3,p379]
 

義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送 り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした。「朕大位を嗣ぐ より、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊 大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。

 

これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して 貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求め た文書である。

 

この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘す るところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。 [3,p381]

 
 
 
■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交
 
 義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したも のであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
 

こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき と同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。起草 者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、 日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]

 
 

「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交 を指す[4,p78]。聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の 天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]

 

義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにする ものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

 
 
■5.「公武を統合した日本全体の代表者」
 
村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
 

その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛 盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると 自負していたからであった。[4,266]

 
 

「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍と ともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。

 

 たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。その日、 義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人 数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。

 

 18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼 食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 
 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢 さを義満は恥じなかった。
 
 
■6.皇位の簒奪まであと一歩
 
村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負し ていた」という点は、次のような事実から窺える。
 

北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位し たがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振 る舞いをした。

 

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代 の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であった らしい。しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとり あげ、南北朝の合一を実現した。

 

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」に するという詔書を貰っている。妻が天皇の母代わりになれば、その夫であ る自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

 

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもと に、親王と同じ次第で元服式を行った。そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。

 

ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるま で、あと一歩であった。そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。

 

しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を 引いている、という自負があったようだ。母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。男系の女子なら皇位についた前例が あるが、女系では皇位につけない。[c]

 

女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力 者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。義満はそうと知っていても、自らの野望を実現す るために、それを無視したのだろう。

 
 
■7.義満の死による「天佑神助」
 
ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が 急に咳(せ)き込み、発病したのである。10
 
日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
 

これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで 偶然だろう。いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩と いうところで実現せずに終わったのである。

 
 
・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。
 

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした 義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]

 
 

もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまってい た。そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。

 

 しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴 史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。

 

権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多 くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。

 
 
■8.反面教師・義満
 

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。 鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満 は法皇そのものの称号を贈られたのである。

 

しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち) は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘 も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。将軍でありながら、公家も 牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。

 
義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿 易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。
 

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再 開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。

 

将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争い を繰り広げるようになる。播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上 で暗殺するという事件を起こした。この後、足利将軍家は形だけの存在と なり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。

 

以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この2つは、わが 国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、 将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師な のである。

 
 東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義 満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
 
 
 
■リンク■
 
a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け 暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
 
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html
 
c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html
 
 
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
 →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
 
1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27
 

2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、自由社、H27

http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237834/japanontheg01-22/
 
3. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETF4/japanontheg01-22/
 
4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
 
5. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇」★★★、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/
 
【続きを読む】

渡部亮次郎氏のメルマガ「頂門の一針」(4月26日)より転載(部分)

2016-04-26 16:24 koreyasublog
━━━━━━━
足利義満の野望
━━━━━━━
 
 伊勢 雅臣
 
■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」
 
東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室 町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
 
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14

世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

 
室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収して いき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 

この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸 宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。

 

足利義満(13581408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りまし た。[1,p71]

 

そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から、後醍醐天 皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ。南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したもの だった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。

 
 
■2.「臣下として屈従する姿勢」
 

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収し て統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。

 

他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、 明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国 王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。 [2,p95]

 

冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命 書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。

 
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明 する。
 

明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のために は、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。義満は明の皇帝 にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任 命された。

 

「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもの で、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]

 
 
 
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」
 
義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
 
応永(JOG: 13941427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こ ちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永 8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。 [3,p379]
 

義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送 り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした。「朕大位を嗣ぐ より、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊 大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。

 

これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して 貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求め た文書である。

 

この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘す るところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。 [3,p381]

 
 
 
■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交
 
 義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したも のであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
 

こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき と同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。起草 者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、 日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]

 
 

「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交 を指す[4,p78]。聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の 天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]

 

義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにする ものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

 
 
■5.「公武を統合した日本全体の代表者」
 
村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
 

その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛 盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると 自負していたからであった。[4,266]

 
 

「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍と ともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。

 

 たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。その日、 義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人 数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。

 

 18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼 食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 
 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢 さを義満は恥じなかった。
 
 
■6.皇位の簒奪まであと一歩
 
村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負し ていた」という点は、次のような事実から窺える。
 

北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位し たがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振 る舞いをした。

 

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代 の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であった らしい。しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとり あげ、南北朝の合一を実現した。

 

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」に するという詔書を貰っている。妻が天皇の母代わりになれば、その夫であ る自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

 

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもと に、親王と同じ次第で元服式を行った。そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。

 

ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるま で、あと一歩であった。そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。

 

しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を 引いている、という自負があったようだ。母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。男系の女子なら皇位についた前例が あるが、女系では皇位につけない。[c]

 

女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力 者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。義満はそうと知っていても、自らの野望を実現す るために、それを無視したのだろう。

 
 
■7.義満の死による「天佑神助」
 
ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が 急に咳(せ)き込み、発病したのである。10
 
日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
 

これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで 偶然だろう。いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩と いうところで実現せずに終わったのである。

 
 
・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。
 

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした 義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]

 
 

もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまってい た。そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。

 

 しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴 史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。

 

権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多 くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。

 
 
■8.反面教師・義満
 

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。 鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満 は法皇そのものの称号を贈られたのである。

 

しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち) は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘 も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。将軍でありながら、公家も 牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。

 
義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿 易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。
 

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再 開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。

 

将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争い を繰り広げるようになる。播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上 で暗殺するという事件を起こした。この後、足利将軍家は形だけの存在と なり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。

 

以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この2つは、わが 国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、 将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師な のである。

 
 東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義 満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
 
 
 
■リンク■
 
a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け 暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
 
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html
 
c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html
 
 
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
 →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
 
1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27
 

2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、自由社、H27

http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237834/japanontheg01-22/
 
3. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETF4/japanontheg01-22/
 
4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
 
5. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇」★★★、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/
 
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渡部亮次郎氏のメルマガ「頂門の一針」(4月26日)より転載(部分)

2016-04-26 16:24 koreyasublog
━━━━━━━
足利義満の野望
━━━━━━━
 
 伊勢 雅臣
 
■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」
 
東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室 町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
 
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14

世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

 
室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収して いき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 

この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸 宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。

 

足利義満(13581408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りまし た。[1,p71]

 

そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から、後醍醐天 皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ。南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したもの だった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。

 
 
■2.「臣下として屈従する姿勢」
 

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収し て統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。

 

他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、 明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国 王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。 [2,p95]

 

冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命 書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。

 
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明 する。
 

明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のために は、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。義満は明の皇帝 にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任 命された。

 

「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもの で、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]

 
 
 
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」
 
義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
 
応永(JOG: 13941427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こ ちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永 8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。 [3,p379]
 

義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送 り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした。「朕大位を嗣ぐ より、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊 大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。

 

これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して 貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求め た文書である。

 

この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘す るところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。 [3,p381]

 
 
 
■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交
 
 義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したも のであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
 

こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき と同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。起草 者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、 日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]

 
 

「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交 を指す[4,p78]。聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の 天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]

 

義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにする ものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

 
 
■5.「公武を統合した日本全体の代表者」
 
村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
 

その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛 盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると 自負していたからであった。[4,266]

 
 

「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍と ともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。

 

 たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。その日、 義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人 数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。

 

 18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼 食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 
 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢 さを義満は恥じなかった。
 
 
■6.皇位の簒奪まであと一歩
 
村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負し ていた」という点は、次のような事実から窺える。
 

北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位し たがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振 る舞いをした。

 

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代 の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であった らしい。しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとり あげ、南北朝の合一を実現した。

 

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」に するという詔書を貰っている。妻が天皇の母代わりになれば、その夫であ る自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

 

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもと に、親王と同じ次第で元服式を行った。そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。

 

ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるま で、あと一歩であった。そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。

 

しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を 引いている、という自負があったようだ。母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。男系の女子なら皇位についた前例が あるが、女系では皇位につけない。[c]

 

女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力 者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。義満はそうと知っていても、自らの野望を実現す るために、それを無視したのだろう。

 
 
■7.義満の死による「天佑神助」
 
ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が 急に咳(せ)き込み、発病したのである。10
 
日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
 

これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで 偶然だろう。いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩と いうところで実現せずに終わったのである。

 
 
・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。
 

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした 義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]

 
 

もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまってい た。そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。

 

 しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴 史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。

 

権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多 くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。

 
 
■8.反面教師・義満
 

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。 鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満 は法皇そのものの称号を贈られたのである。

 

しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち) は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘 も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。将軍でありながら、公家も 牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。

 
義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿 易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。
 

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再 開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。

 

将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争い を繰り広げるようになる。播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上 で暗殺するという事件を起こした。この後、足利将軍家は形だけの存在と なり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。

 

以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この2つは、わが 国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、 将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師な のである。

 
 東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義 満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
 
 
 
■リンク■
 
a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け 暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
 
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html
 
c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html
 
 
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
 →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
 
1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27
 

2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、自由社、H27

http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237834/japanontheg01-22/
 
3. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETF4/japanontheg01-22/
 
4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
 
5. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇」★★★、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/
 
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渡部亮次郎氏のメルマガ「頂門の一針」(4月26日)より転載(部分)

2016-04-26 16:24 koreyasublog
━━━━━━━
足利義満の野望
━━━━━━━
 
 伊勢 雅臣
 
■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」
 
東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室 町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
 
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14

世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

 
室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収して いき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 

この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸 宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。

 

足利義満(13581408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りまし た。[1,p71]

 

そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から、後醍醐天 皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ。南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したもの だった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。

 
 
■2.「臣下として屈従する姿勢」
 

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収し て統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。

 

他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、 明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国 王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。 [2,p95]

 

冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命 書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。

 
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明 する。
 

明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のために は、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。義満は明の皇帝 にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任 命された。

 

「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもの で、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]

 
 
 
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」
 
義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
 
応永(JOG: 13941427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こ ちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永 8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。 [3,p379]
 

義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送 り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした。「朕大位を嗣ぐ より、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊 大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。

 

これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して 貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求め た文書である。

 

この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘す るところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。 [3,p381]

 
 
 
■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交
 
 義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したも のであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
 

こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき と同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。起草 者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、 日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]

 
 

「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交 を指す[4,p78]。聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の 天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]

 

義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにする ものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

 
 
■5.「公武を統合した日本全体の代表者」
 
村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
 

その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛 盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると 自負していたからであった。[4,266]

 
 

「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍と ともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。

 

 たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。その日、 義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人 数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。

 

 18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼 食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 
 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢 さを義満は恥じなかった。
 
 
■6.皇位の簒奪まであと一歩
 
村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負し ていた」という点は、次のような事実から窺える。
 

北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位し たがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振 る舞いをした。

 

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代 の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であった らしい。しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとり あげ、南北朝の合一を実現した。

 

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」に するという詔書を貰っている。妻が天皇の母代わりになれば、その夫であ る自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

 

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもと に、親王と同じ次第で元服式を行った。そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。

 

ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるま で、あと一歩であった。そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。

 

しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を 引いている、という自負があったようだ。母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。男系の女子なら皇位についた前例が あるが、女系では皇位につけない。[c]

 

女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力 者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。義満はそうと知っていても、自らの野望を実現す るために、それを無視したのだろう。

 
 
■7.義満の死による「天佑神助」
 
ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が 急に咳(せ)き込み、発病したのである。10
 
日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
 

これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで 偶然だろう。いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩と いうところで実現せずに終わったのである。

 
 
・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。
 

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした 義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]

 
 

もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまってい た。そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。

 

 しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴 史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。

 

権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多 くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。

 
 
■8.反面教師・義満
 

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。 鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満 は法皇そのものの称号を贈られたのである。

 

しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち) は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘 も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。将軍でありながら、公家も 牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。

 
義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿 易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。
 

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再 開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。

 

将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争い を繰り広げるようになる。播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上 で暗殺するという事件を起こした。この後、足利将軍家は形だけの存在と なり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。

 

以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この2つは、わが 国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、 将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師な のである。

 
 東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義 満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
 
 
 
■リンク■
 
a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け 暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
 
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html
 
c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html
 
 
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
 →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
 
1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27
 

2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、自由社、H27

http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237834/japanontheg01-22/
 
3. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETF4/japanontheg01-22/
 
4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
 
5. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇」★★★、H22
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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望

2016-04-24 02:27 護国夢想日記

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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望
貿易のために明への臣従外交を行い、皇位簒奪まで図った野望家。
■転送歓迎■ H28.04.24 ■ 45,780 Copies ■ 4,172,756Views■
無料購読申込・取消: http://blog.jog-net.jp/
■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」

東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
__________
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収していき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。
__________
足利義満(1358~1408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りました。[1,p71]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から後醍醐天皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ


南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したものだった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。
■2.「臣下として屈従する姿勢」

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収して統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。
__________
他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。


義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。[2,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明する。
__________
明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のためには、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。


義満は明の皇帝にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任命された。
「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもので、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」

義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
__________
応永(JOG注: 1394~1427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。[3,p379]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした


「朕大位を嗣ぐより、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。
__________
これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG注: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求めた文書である。
この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘するところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。[3,p381]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交

義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したものであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
__________
こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったときと同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。


起草者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交を指す[4,p78]。


聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]
 義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにするものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

■5.「公武を統合した日本全体の代表者」

村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
__________
その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していたからであった。[4,266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍とともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。
たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。


その日、義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。
18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢さを義満は恥じなかった。
■6.皇位の簒奪まであと一歩

村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していた」という点は、次のような事実から窺える。
北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位したがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。


義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振る舞いをした。

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。


幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であったらしい。


しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとりあげ、南北朝の合一を実現した。

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」にするという詔書を貰っている。


妻が天皇の母代わりになれば、その夫である自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもとに、親王と同じ次第で元服式を行った。


そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。
ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるまで、あと一歩であった。


そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。
しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を引いている、という自負があったようだ。


母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。


男系の女子なら皇位についた前例があるが、女系では皇位につけない。[c]
女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。


義満はそうと知っていても、自らの野望を実現するために、それを無視したのだろう。
■7.義満の死による「天佑神助」

ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が急に咳(せ)き込み、発病したのである。


そして10日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
__________
これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで偶然だろう。


いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩というところで実現せずに終わったのである。

・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまっていた


そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。
しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。
権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。
■8.反面教師・義満

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。


鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。


「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満は法皇そのものの称号を贈られたのである。
しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち)は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。


さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。


将軍でありながら、公家も牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。
 義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。
将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争いを繰り広げるようになる。


播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上で暗殺するという事件を起こした。


この後、足利将軍家は形だけの存在となり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。
以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この二つは、わが国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。


独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師なのである。
東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
(文責:伊勢雅臣)

__________
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■リンク■

a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html
c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
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3. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
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4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
5. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇」★★★、H22
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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望

2016-04-24 02:27 護国夢想日記

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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望
貿易のために明への臣従外交を行い、皇位簒奪まで図った野望家。
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■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」

東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
__________
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収していき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。
__________
足利義満(1358~1408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りました。[1,p71]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から後醍醐天皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ


南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したものだった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。
■2.「臣下として屈従する姿勢」

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収して統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。
__________
他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。


義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。[2,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明する。
__________
明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のためには、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。


義満は明の皇帝にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任命された。
「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもので、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」

義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
__________
応永(JOG注: 1394~1427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。[3,p379]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした


「朕大位を嗣ぐより、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。
__________
これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG注: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求めた文書である。
この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘するところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。[3,p381]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交

義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したものであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
__________
こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったときと同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。


起草者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交を指す[4,p78]。


聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]
 義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにするものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

■5.「公武を統合した日本全体の代表者」

村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
__________
その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していたからであった。[4,266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍とともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。
たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。


その日、義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。
18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢さを義満は恥じなかった。
■6.皇位の簒奪まであと一歩

村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していた」という点は、次のような事実から窺える。
北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位したがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。


義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振る舞いをした。

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。


幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であったらしい。


しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとりあげ、南北朝の合一を実現した。

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」にするという詔書を貰っている。


妻が天皇の母代わりになれば、その夫である自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもとに、親王と同じ次第で元服式を行った。


そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。
ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるまで、あと一歩であった。


そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。
しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を引いている、という自負があったようだ。


母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。


男系の女子なら皇位についた前例があるが、女系では皇位につけない。[c]
女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。


義満はそうと知っていても、自らの野望を実現するために、それを無視したのだろう。
■7.義満の死による「天佑神助」

ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が急に咳(せ)き込み、発病したのである。


そして10日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
__________
これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで偶然だろう。


いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩というところで実現せずに終わったのである。

・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまっていた


そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。
しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。
権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。
■8.反面教師・義満

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。


鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。


「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満は法皇そのものの称号を贈られたのである。
しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち)は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。


さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。


将軍でありながら、公家も牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。
 義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。
将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争いを繰り広げるようになる。


播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上で暗殺するという事件を起こした。


この後、足利将軍家は形だけの存在となり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。
以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この二つは、わが国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。


独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師なのである。
東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
(文責:伊勢雅臣)

__________
週間メール入門講座「教育再生」
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「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
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c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望

2016-04-24 02:27 護国夢想日記

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貿易のために明への臣従外交を行い、皇位簒奪まで図った野望家。
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■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」

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室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収していき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。
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足利義満(1358~1408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りました。[1,p71]
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そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から後醍醐天皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ


南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したものだった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。
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他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。


義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。[2,p95]
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冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明する。
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明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のためには、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。


義満は明の皇帝にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任命された。
「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもので、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]
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■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」

義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
__________
応永(JOG注: 1394~1427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。[3,p379]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした


「朕大位を嗣ぐより、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。
__________
これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG注: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求めた文書である。
この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘するところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。[3,p381]
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■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交

義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したものであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
__________
こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったときと同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。


起草者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交を指す[4,p78]。


聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]
 義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにするものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

■5.「公武を統合した日本全体の代表者」

村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
__________
その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していたからであった。[4,266]
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「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍とともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。
たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。


その日、義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。
18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢さを義満は恥じなかった。
■6.皇位の簒奪まであと一歩

村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していた」という点は、次のような事実から窺える。
北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位したがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。


義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振る舞いをした。

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。


幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であったらしい。


しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとりあげ、南北朝の合一を実現した。

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」にするという詔書を貰っている。


妻が天皇の母代わりになれば、その夫である自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもとに、親王と同じ次第で元服式を行った。


そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。
ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるまで、あと一歩であった。


そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。
しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を引いている、という自負があったようだ。


母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。


男系の女子なら皇位についた前例があるが、女系では皇位につけない。[c]
女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。


義満はそうと知っていても、自らの野望を実現するために、それを無視したのだろう。
■7.義満の死による「天佑神助」

ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が急に咳(せ)き込み、発病したのである。


そして10日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
__________
これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで偶然だろう。


いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩というところで実現せずに終わったのである。

・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまっていた


そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。
しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。
権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。
■8.反面教師・義満

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。


鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。


「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満は法皇そのものの称号を贈られたのである。
しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち)は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。


さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。


将軍でありながら、公家も牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。
 義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。
将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争いを繰り広げるようになる。


播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上で暗殺するという事件を起こした。


この後、足利将軍家は形だけの存在となり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。
以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この二つは、わが国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。


独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師なのである。
東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
(文責:伊勢雅臣)

__________
週間メール入門講座「教育再生」
http://bit.ly/118DokM 閉ざされたクラスルーム/密室の中の独裁者/学力崩壊が階級社会を招く/国語の地下水脈/人格を磨けば学力は伸びる/子供を伸ばす家庭教育/江戸日本はボランティア教育大国/国作りは人作り
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html
c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
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4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
5. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇」★★★、H22
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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望

2016-04-24 02:27 護国夢想日記

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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望
貿易のために明への臣従外交を行い、皇位簒奪まで図った野望家。
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■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」

東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
__________
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収していき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。
__________
足利義満(1358~1408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りました。[1,p71]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から後醍醐天皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ


南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したものだった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。
■2.「臣下として屈従する姿勢」

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収して統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。
__________
他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。


義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。[2,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明する。
__________
明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のためには、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。


義満は明の皇帝にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任命された。
「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもので、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」

義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
__________
応永(JOG注: 1394~1427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。[3,p379]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした


「朕大位を嗣ぐより、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。
__________
これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG注: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求めた文書である。
この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘するところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。[3,p381]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交

義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したものであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
__________
こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったときと同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。


起草者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交を指す[4,p78]。


聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]
 義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにするものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

■5.「公武を統合した日本全体の代表者」

村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
__________
その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していたからであった。[4,266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍とともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。
たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。


その日、義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。
18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢さを義満は恥じなかった。
■6.皇位の簒奪まであと一歩

村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していた」という点は、次のような事実から窺える。
北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位したがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。


義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振る舞いをした。

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。


幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であったらしい。


しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとりあげ、南北朝の合一を実現した。

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」にするという詔書を貰っている。


妻が天皇の母代わりになれば、その夫である自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもとに、親王と同じ次第で元服式を行った。


そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。
ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるまで、あと一歩であった。


そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。
しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を引いている、という自負があったようだ。


母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。


男系の女子なら皇位についた前例があるが、女系では皇位につけない。[c]
女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。


義満はそうと知っていても、自らの野望を実現するために、それを無視したのだろう。
■7.義満の死による「天佑神助」

ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が急に咳(せ)き込み、発病したのである。


そして10日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
__________
これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで偶然だろう。


いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩というところで実現せずに終わったのである。

・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまっていた


そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。
しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。
権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。
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義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。


鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。


「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満は法皇そのものの称号を贈られたのである。
しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち)は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。


さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。


将軍でありながら、公家も牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。
 義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。
将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争いを繰り広げるようになる。


播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上で暗殺するという事件を起こした。


この後、足利将軍家は形だけの存在となり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。
以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この二つは、わが国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。


独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師なのである。
東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
(文責:伊勢雅臣)

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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望

2016-04-24 02:27 護国夢想日記

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■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」

東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
__________
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

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足利義満(1358~1408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りました。[1,p71]
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南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したものだった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。
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__________
他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。


義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。[2,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明する。
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義満は明の皇帝にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任命された。
「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもので、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」

義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
__________
応永(JOG注: 1394~1427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。[3,p379]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした


「朕大位を嗣ぐより、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。
__________
これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG注: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求めた文書である。
この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘するところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。[3,p381]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交

義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したものであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
__________
こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったときと同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。


起草者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交を指す[4,p78]。


聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]
 義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにするものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

■5.「公武を統合した日本全体の代表者」

村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
__________
その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していたからであった。[4,266]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍とともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。
たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。


その日、義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。
18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢さを義満は恥じなかった。
■6.皇位の簒奪まであと一歩

村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していた」という点は、次のような事実から窺える。
北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位したがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。


義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振る舞いをした。

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。


幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であったらしい。


しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとりあげ、南北朝の合一を実現した。

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」にするという詔書を貰っている。


妻が天皇の母代わりになれば、その夫である自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもとに、親王と同じ次第で元服式を行った。


そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。
ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるまで、あと一歩であった。


そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。
しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を引いている、という自負があったようだ。


母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。


男系の女子なら皇位についた前例があるが、女系では皇位につけない。[c]
女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。


義満はそうと知っていても、自らの野望を実現するために、それを無視したのだろう。
■7.義満の死による「天佑神助」

ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が急に咳(せ)き込み、発病したのである。


そして10日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
__________
これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで偶然だろう。


いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩というところで実現せずに終わったのである。

・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまっていた


そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。
しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。
権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。
■8.反面教師・義満

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。


鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。


「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満は法皇そのものの称号を贈られたのである。
しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち)は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。


さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。


将軍でありながら、公家も牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。
 義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。
将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争いを繰り広げるようになる。


播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上で暗殺するという事件を起こした。


この後、足利将軍家は形だけの存在となり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。
以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この二つは、わが国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。


独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師なのである。
東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
(文責:伊勢雅臣)

__________
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a. JOG(938) 歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
http://blog.jog-net.jp/201602/article_4.html
b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html
c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
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1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27
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3. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
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4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
5. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇」★★★、H22
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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望

2016-04-24 02:27 護国夢想日記

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歴史教科書読み比べ(26) 足利義満の野望
貿易のために明への臣従外交を行い、皇位簒奪まで図った野望家。
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■1.「南北朝の争乱をしずめて統一を実現しました」

東京書籍(東書)版の中学歴史教科書では、「南北朝の動乱」の次に「室町幕府の発展」の項を設け、次のように述べる。
__________
室町幕府の発展 尊氏の孫の足利義満が将軍になったのち、14世紀末には、日本各地での争いも少なくなり、1392年に南北朝が統一されました。

室町幕府は、朝廷が持っていた政治的、経済的な権限をしだいに吸収していき、全国を支配する唯一の政権となりました。[1,p70]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この後に室町幕府の仕組みの説明が続き、「花の御所」と題した将軍の邸宅の絵を示す。「足利義満」と題したコラムでは出家後の義満を描いた絵を載せ、こう説明する。
__________
足利義満(1358~1408) 義満は、南北朝の争乱をしずめて統一を実現させました。朝廷の内部にも勢力を広げて太政大臣となって権力を握りました。[1,p71]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そもそも「南北朝の争乱」は、足利尊氏が天下取りの野望から後醍醐天皇の建武の中興を崩壊させて引き起こしたものだ


南北朝の合一は、義満が、再び両朝から交互に天皇がお立ちになると南朝を欺いて実現したものだった[a]。こういう歴史の真実を語らない東書版では、義満の本当の姿は伝わらない。
■2.「臣下として屈従する姿勢」

自由社版では、義満が南北朝の合一を実現し、朝廷の権限の多くを吸収して統一政権を作った点の記述は大同小異だが、その次に東書版では全く触れていない以下の説明をする。
__________
他方で、義満は明との貿易の利益のために明との国交を望んだ。しかし、明との国交を開くには、明の皇帝の冊封(さくほう)を受けることが必要だった。


義満は明の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを「日本国王臣源道義(どうぎ)」と名乗って、臣下として屈従する姿勢を見せた。[2,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
冊封に関しては、同書の41頁に、「皇帝は、朝貢してくる蛮夷(ばんい)の支配者を臣下として『王』の称号をあたえ、『柵書』(さくしょ、任命書)によってその国の支配権を認めた」と冊封体制を説明している。
同じ頁の「『日本国王』になった足利義満」というコラムでは、こう説明する。
__________
明は民間人の貿易を禁止する海禁政策をとっていた。明との貿易のためには、明の皇帝の冊封を受けて国交を開いた上で、明へ朝貢し、これに対して明からの返礼を受けるという形式をとる必要があった。


義満は明の皇帝にたびたび国書をもった使いを送り、1402(建文4)年、「日本国王」に任命された。
「国王」という称号は、古代以来、中国の服属国であることを示すもので、明は義満に金印と明の暦をあたえた。暦を受けとることは、服属を認める象徴的行為だった。[1,p95]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■3.「明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見」

義満が明との臣従外交を始めた経緯が[3]に記されている。
__________
応永(JOG注: 1394~1427)のはじめ、明から帰国した九州の商人肥富(こちとみ)は日明両国の通交の利あるゆえんを義満に進言した。そこで応永8(1401)年5月肥富を明に遣わし、信書と貢物(みつぎもの)を贈った。[3,p379]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
義満は「書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」とへりくだった信書を送り、翌年、明からの使者が皇帝からの返書をもたらした


「朕大位を嗣ぐより、四夷の君長朝献する者、十百を以て計(かぞ)う(朕が皇位を継いでから、周囲の野蛮国から朝貢するものは数十、数百に上る)」という尊大な書き出しで始め、義満の国書をよしとした。
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これは明主が日本を属国として取扱い、義満を日本国王に封じ、来朝して貢を献じたことを嘉(よみ)するにより、ここに大統暦をわかち与えて正朔を奉ぜしめ(JOG注: 天子の統治に服させ)、あわせて倭寇の禁止を求めた文書である。
この文辞が不遜なものであったことは当時すでに心ある公武の者の指摘するところであったが、義満は彼ら使者を迎えるにはなはだ丁重であり、明書に焼香して三拝し、跪(ひざまづ)いて披見したということである。[3,p381]
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■4.朝貢形式に甘んずる卑しい大陸外交

義満の親書は、禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)が起草したものであった。これについて、歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
__________
こうして、足利の大陸外交は、大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったときと同じように、朝貢形式に甘んずる卑しい性質のものに堕落してしまったばかりでなく、義満の「日本国王」という対外称号は問題を残した。


起草者の中津ら当時の禅僧は、作文にかけては一流の人々であったけれども、日本人としての自主性に立った修辞などについてはほとんど無関心な文化人であった。[4,266]
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「大和朝廷の外交を帰化人が請け負ったとき」とは、聖徳太子以前の外交を指す[4,p78]。


聖徳太子はそれを変革して、当時の超大国・隋に対して、「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す」との書を送って、画期的な対等外交を始めた。[b]
 義満の朝貢外交は、聖徳太子以来の対等独立外交の伝統をなし崩しにするものであった。利のためには国家の独立も尊厳も省みることのない姿勢は、現代日本の親中政治家を見るようだ。

■5.「公武を統合した日本全体の代表者」

村尾次郎博士は、前節の文に続けて、こう述べている。
__________
その精神的外国人の不見識な作文をそのまま採用した義満が、たいして矛盾もおもはゆさも感じなかったのは、自分が実質上、公武を統合した日本全体の代表者であり、院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していたからであった。[4,266]
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「公武を統合した日本全体の代表者」とは、義満が武家の長である将軍とともに、公家の長である太上大臣にもなった事を示す。そして、摂関大臣以下の公卿を、まるで自分の家臣のように使った。
たとえば応永元(1394)年3月15日に、義満は公卿5人、殿上人11人などを引き連れて、興福寺常楽会(じょうらくえ)に参列した。


その日、義満は夜明けに宿舎を出て、常楽会桟敷(さじき)にやってきた。殿上人数人が遅れてきたが、遅参の者には参列を許さなかった。
18日早朝に帰路についたが、朝から雨が降っていた。義満は宇治で昼食をとったが、供の衆には休みをとらせず、食事もさせずに京都に帰った。[3,p312]

 本来、天皇の臣下である公卿に対して、自らへの忠誠を試すような傲慢さを義満は恥じなかった。
■6.皇位の簒奪まであと一歩

村尾博士の「院政の主宰者である法皇とかわらない存在であると自負していた」という点は、次のような事実から窺える。
北朝第4代の後円融天皇は、第3代の崇光天皇がご自分の皇子に譲位したがっていたのを覆して、義満が支持して皇位につけた。


義満はそれを恩に着せて、後円融天皇と差し向かいで酒を飲むなど、前例のない不遜な振る舞いをした。

後円融天皇が崩御されると、その皇子を皇位につけた。これが北朝第5代の後小松天皇で、即位した時にはまだ5、6歳の子供だった。


幼い頃から義満に慣れ親しんでいたため、その関係は叔父と甥のような関係であったらしい。


しかも、この後小松天皇の時に、南朝を騙して三種の神器をとりあげ、南北朝の合一を実現した。

応永13(1406)年、後小松天皇の生母が重病となった時、義満は策を巡らして、後小松天皇から、自分の妻を「准母(じゅんぼ、国母の代わり)」にするという詔書を貰っている。


妻が天皇の母代わりになれば、その夫である自分は父親、すなわち法皇に相当するというわけである。

義満の最愛の次男・義嗣(よしつぐ)の元服の際には、天皇ご臨席のもとに、親王と同じ次第で元服式を行った。


そして義嗣を天皇の御猶子(名目上の子ども)とし、以後、「若宮」(幼少の皇子)と呼ばせた。
ここまで来れば、後小松天皇を退位させ、義嗣を天皇として即位させるまで、あと一歩であった。


そして、それを止める力は朝廷にも武士にもなかった。
しかも、義満の母は順徳天皇の4世の子孫であり、義満自身も皇室の血を引いている、という自負があったようだ。


母が皇室の子孫であっても、義満もその子の義嗣も女系に過ぎない。


男系の女子なら皇位についた前例があるが、女系では皇位につけない。[c]
女系を皇位から排除するということは、足利氏のような野望に満ちた権力者が皇族の女性を迎えて、生まれた子どもを皇位につける、という危険を排除する叡知であった。


義満はそうと知っていても、自らの野望を実現するために、それを無視したのだろう。
■7.義満の死による「天佑神助」

ところが、ここで不思議な事件が起こる。義嗣の元服式の翌々日に義満が急に咳(せ)き込み、発病したのである。


そして10日後には亡くなってしまう。渡部昇一氏はこう語る。
__________
これは偶然だろうか。毒殺説というのも聞いたことがないから、あくまで偶然だろう。


いずれにしろ、義満が急死したため、政治的権力によって血がつながらない子供を皇位につけるという前代未聞の企ては、あと一歩というところで実現せずに終わったのである。

・・・平清盛が熱病で死んだのも、天罰であると言われたくらいである。

清盛よりもさらに大きな野心を抱き、自分の子供を皇位につけようとした義満の急死にいたっては「天佑神助(てんゆうしんじょ、天と神の助け)と言う人があってもおかしくない。[4,p208]
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 もし、この時点で義嗣が皇位を継いだら、万世一系は途切れてしまっていた


そして、この悪名高い足利氏の子孫が現在の皇室の祖ということになっていたら、皇室の権威は大きく毀損されていたはずだ。
しかも、権力によって皇位まで狙えるということになったら、中国の歴史が示すように、その後の信長-秀吉-家康と権力者の交代の度に皇室まで入れ替わるということになり、その都度、大きな戦乱となっていただろう。
権力者が入れ替わっても、ひとたび皇室にその正統性を認められれば、多くの敵対勢力も矛を収めるという事で、権力者の交代に伴う戦乱は我が国では中国とは比較にならないほどの小規模で済んできたのである。
■8.反面教師・義満

義満は死後、朝廷から「鹿苑院(ろくおんいん)太上法王」を贈られた。


鹿苑院は義満が建立した相国寺の禅道場であり、そこに義満の墓があった。


「太上法王」とは、天皇が退位して出家した「法皇」の意味で、義満は法皇そのものの称号を贈られたのである。
しかし、義満の長男で第4代将軍の地位についていた義持(よしもち)は、人臣にしてかような恩命を拝受した先例がない、と辞退した。


さらに「准国母」となった義満の妻の葬式もごく簡単に行い、北山の広壮な別荘も、金閣寺などを残しただけで、取り壊した。


将軍でありながら、公家も牛耳った義満の路線を否定して、武家らしさを取り戻そうとしたのである。
 義満の死によって、明との朝貢外交に対する反省も起こり、義持は朝貢貿易も廃止した。足利氏には珍しく、見識ある国家観の持ち主だった。

しかし、それも一時的で、次々代、義教(よしのり)の代に朝貢貿易は再開されている。義持を例外として、尊氏以来、足利氏には利のためには義を問わない血筋が流れていたようだ。
将軍がこの有様では、配下の守護大名たちも、利のために権謀術数の争いを繰り広げるようになる。


播磨の守護・赤松満佑(みつすけ)は6代将軍・義教(よしのり)に所領を奪われることを恐れて、自邸に招待した上で暗殺するという事件を起こした。


この後、足利将軍家は形だけの存在となり、そこから応仁の乱が起こって、戦乱の世になっていく。
以上、義満の朝貢外交と皇位簒奪の企てを見てきたが、この二つは、わが国の独立外交のあるべき姿、および皇室制度の本質を明らかにする事件だった。


独立外交の伝統を打ち崩し、天皇の万世一系を脅かした義満は、将来の日本を背負っていく国民を育てるためには、またとない反面教師なのである。
東書版のように、この点を教えない歴史教育では、わが国の青少年は義満と同様の「精神的外国人」となりかねない。
(文責:伊勢雅臣)

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「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
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b. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) ~ 聖徳太子の理想国家建設
聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
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c. JOG(416) 万世一系のY染色体~「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
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4. 村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
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歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い

2016-02-14 00:48 護国夢想日記

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歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
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■1.あまりにも表面的な「南北朝時代」の記述
 後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」がわずか2年余りで崩れた後、南北朝時代を迎える。


この後、約60年間、二つの朝廷が並び立つという空前絶後の異常事態が続くのだが、東京書籍版の中学歴史教科書の記述はわずか4行である。
__________
尊氏は京都に新たに天皇を立て、後醍醐天皇が吉野(奈良県)にのがれたので、二つの朝廷が生まれました。京都方を北朝、吉野方を南朝と呼び、この南北朝は全国の武士によびかけて戦いました。南北朝の動乱のつづいた約60年を南北朝時代といいます。[1,p70]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
これでは南北朝が互いの権力争いのために、全国を約60年間も戦乱に陥れた、という理解で終わってしまう。
一方、自由社版中学歴史教科書も、多少は詳しいが、大同小異の記述である。
__________
南北朝の争乱 1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは、京都に幕府を開き、鎌倉時代初期の北条泰時らの政治を手本とする、幕府政治再興の方針を明らかにしたものだった。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに2つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。両者は別々の年号を使った。
吉野に置かれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両者はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国で争いをつづけた。この時代を南北朝時代という。[2,p93]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
何のために南朝は吉野の山奥で約60年間も抵抗を続けたのか、そして勝利した足利幕府がなぜ権威を失って戦国時代に突入するのか、ここには我が国の国柄を理解する上で重大なポイントが潜んでいる。
■2.尊氏の策略から始まった南北朝

 そもそも南北朝並立という前代未聞の異常事態が始まったのは、尊氏の謀略からである。

九州から押し寄せた足利軍に対して、延元元(1336)年5月25日、湊川(現・兵庫県)の戦いに敗れた後、楠木正成・正季兄弟は「七生報国(七たび人間に生まれ変わって国に報いる)」を誓って差し違えた。
5月27日、後醍醐天皇は叡山に逃れたが、8月15日、京都に入った足利尊氏は持明院統の光厳(こうごん)上皇の弟宮を立てて光明天皇とした


後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが二朝並立の始まりである。
しかし、三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇には正統性はない。


そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京都に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、神器を光明天皇に渡すように強要した。
後醍醐天皇は、こうした事態も予期されていた様子で、偽物と言われる神器を渡された上で、秘かに12月21日夜、吉野(現・奈良県南部)に逃れ出た。こうして南朝が始まったのである。
後醍醐天皇在位のまま神器もなしの北朝擁立といい、神器を得るための策略といい、私欲のためには手段を選ばない尊氏の人となりが見てとれる。

■3.南朝の全国ネットワーク

南朝と言うと、いかにも吉野の山奥に潜んで、ゲリラ的抵抗を続けていたかのように思えるが、実際にはそうではなかった。


そもそも吉野は修験道の本拠地として、多くの寺社を擁し、それぞれが数百、数千の衆徒を抱える富強の地であった。
東は伊勢の地で勤王の志厚く、さらに海路で陸奥につながる。そこには北畠親房(ちかふさ)・顯家(あきいえ)親子が後醍醐天皇の第七皇子・義良(のりなが)親王(次代・後村上天皇)を奉じて関東を窺っていた。
西の河内は楠木一族の本拠地であり、そこから南朝方の熊野や伊予の水軍が支配する瀬戸内海を経て、九州の菊池・阿蘇ら勤王軍につながる。後醍醐天皇は懐良(かねよし)親王を征西将軍宮として派遣され、この親王のもとで九州では南朝方が優勢だった。
さらに北陸には新田義貞の一族が、京都を睨んでいた。このように南朝は吉野を中心に、全国的なネットワークを構築して、北朝と対峙していたのである。
■4.「城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み」

加えて、南朝には「天皇を国家統合の中心とし、その愛民の精神を文武の官が体して政治を行う」という後醍醐天皇の理想[a]に共鳴して戦い続けた人々が多かった。その一人が北畠親房(ちかふさ)である。

息子・顯家が戦死した後も、50歳に近い年齢にも関わらず、各地で南朝の勢力拡大、足利方との戦闘に奔走した。


吉野を中核に、皇子を各地に派遣して、全国に南朝方のネットワークを創るという雄大な戦略も、親房が編み出したものと言われている。
延元4(1339)年に後醍醐天皇がお隠れになると次代の後村上天皇のために、親房は常陸の小田城(茨城県つくば市)の陣中で筆をとり、我が国の国柄を歴史を通じて説いた『神皇正統記』を書き上げた。歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
__________
『神皇正統記』は彼の学識と情熱とをかたむけて執筆した国史であるとともに、歴史評論であり、その随所に、きびしい道義のことばがほとばしっている。


親房につき従う城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み、正統記の文章にはげまされて勇気を振いおこしては戦つたと伝えられている。[3,p249]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
南北朝史を専門とする村田正志博士は、この書が世の中にどう受けとめられたかを、次のように述べている。
__________
すなわち本書は南朝正統の歴史的理論的根拠を明らかにした書であり、著作された当時、南朝の人々はもとより一般人にも名著として歓迎され、その後室町時代にも重んぜられ、更に近世になってから後は、その学問的、また思想的価値が大いに認められるようになったのである。[4,p129]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
南朝の人々は、後醍醐天皇が率先し、親房が『神皇正統記』で描いた理想によって結ばれていた。

■5.「七生報国」の楠木・新田一族

その志を継承して、南朝方の武将たちが何代にもわたって戦い続けた史実も忘れがたい。
建武3(1336)年、足利尊氏の軍を兵庫・湊川で迎え撃とうとする正成は討死を決意し、11歳の息子・正行(まさつら)を郷里に帰るよう命じて、次のような遺戒を与えた。
__________
正成すでに討死すと聞きなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代に成りぬと心得べし、然(しか)りといへども、一旦(いったん)の身命を助からんために、多年の忠烈を失ひて、降人(こうじん、降伏)に出づる事あるべからず。[5,p210]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
正行はこの言葉通りに、吉野の西の守りを固め、正平3(1348)年、23歳の時に、押し寄せた足利の大軍を四條畷の戦いで破るが、自らも重傷を負い、弟・正時とともに自決する。
後を継いだ三男・正儀(まさのり)も、一時は北朝との和平を訴えて南朝内の立場を失い、やむなく北朝側に立った時期もあったが、その後は南朝側に復帰して戦い続けた。
以降の楠木一族も、元中7(1390)年、永享元(1429)年、同9(1438)年、文安4(1447)年、寛正元(1460)年に足利氏に反逆して討死にした記録が遺っている。1460年と言えば、正成の討死の124年後である。まさに「七生報国」を一族として実践したのである。
新田の一族も、義貞の子ら、そして弟の義助とその子らがみな志を同じくして南朝側に立ち、ほとんど戦死を遂げている。その子孫も、応永16(1409)年頃まで何度か足利氏に反逆して討死にした記録が残っている。
■6.足利一族の内紛、謀略、裏切り

南朝方が一つの志で全国的に結ばれ、かつ何代にもわたって戦い続けたのに対し、足利方は内紛、謀略、裏切りの連続であった。
尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟は専横を極め、尊氏の弟・直義(ただよし)と対立した。直義は正平5(1350)年、南朝に帰順し、その権威と武力を背景に、高兄弟の打倒を図った。
尊氏は高兄弟の側について、直義と戦ったが大敗。高兄弟は負傷し降伏したが、殺されてしまった。尊氏と直義は表面上は和解したが、翌年、不和が生じ、直義が京都から逃れ去ったので、尊氏は追討の兵を上げることとした。
この際、尊氏・義詮(よしあきら)親子は直義を真似て、南朝に降参して、その権威を利用しようとした。南朝方は容易には許さなかったが、尊氏は重ねて奏上し、後村上天皇の親政を願い、京都へのご帰還を請うたので、これを許した。
直義のみならず、尊氏親子まで降伏してきたので、正平6(1351)年、南朝方は北朝を廃止し、偽物とされていた神器も回収した。ここに一度は南北朝の並立という異常事態は解消したのである。各地の南朝軍も振るい立ち、京都も奪回した。
尊氏は南朝の承認を得た上で、鎌倉にのぼり、直義を成敗すると、翌正平7(1352)年、南朝方を裏切って、攻撃をしかけた。諸国の南軍が急ぎ上京して加勢しようとしたが、間に合わなかった。
尊氏・義詮は新たに後光厳天皇を立てたが、今回は偽の神器すらない中での即位となった。さすがにこれでは権威もないと、足利氏三代目の義満が南朝と和平交渉をし、明徳3(1392)年、南朝第4代の後亀山天皇から、北朝第6代の後小松天皇に譲位される形で、神器も北朝に渡されることになった。
和平条件としては、今後、再び、両朝から天皇が交互にお立ちになるという事だったが、義満は神器さえ取り戻せば、と、この合意を踏みにじってしまった。いかにも足利一族らしいやり口である。楠木・新田両一族がこの後も長く戦い続けたのは、この裏切りが原因であった。
■7.足利武士たちの無知と私利私欲

尊皇心、道義心に満ちた南朝方に対して、足利方の皇室軽視と謀略ぶりは鮮やかな対照をなしている。この違いのよって来る所を示す格好のエピソードがある。
足利方の土岐寄遠(とき・よりとお)という武士は、北朝初代天皇であった光厳上皇の行列に出会っても、馬を下りようとしなかった。上皇の先駆けの者が「光厳院がお通りになるのか分からないのか」と叱りつけると、土岐は「院だろうが犬だろうが、そんなこと知るものか、犬ならば射てみよう」と言って、院の輿(こし)に矢を射込ませた。
足利直義はさすがに驚き、土岐を死刑にした。これを聞いた武士たちは大いに恐れ入って、「上皇に出会ってさえ馬から下りなければならないのであれば、両御所(尊氏、直義)に出会ったときは地面に這いつくばらねばいけないのだろうか」とささやき合ったという。[6,p175]
上皇よりも尊氏などの方が偉いと思っている無知ぶりである。『神皇正統記』を戦いの合間に写しては読んだ南朝の武士たちとの違いは著しい。
南朝方と足利方の対照的な生き方を見ると、結局、足利方の武士たちは何ら学問をしていないために、人として信義の大切さも、皇室の伝統的な愛民精神も学ばずに、私利私欲のためだけに内紛、謀略、裏切りに明け暮れていたように思われる。
■8.「精神の美しい輝き」と「私利私欲の紛乱」と

室町幕府は初代・尊氏以降、15代将軍・義昭が織田信長によって京都から追放された元亀4(1573)年まで240年ほども続くが、最初の約60年は南北朝の争いが続き、両朝合一後も各地で乱が絶えることなく、応仁元(1467)年に始まった応仁の乱以降は、全国各地で有力守護大名が戦い合う戦国時代が100年ほども続く。
皇室の愛民精神にも学ばず、道義のかけらもない私利私欲だけの権力者のもとで国が治まるはずもない。室町幕府が権力も権威も失い、戦乱の世が続いたのも当然であった。
『物語日本史』の著者・平泉澄博士は、南朝の活躍した吉野時代57年間と、その後、足利幕府支配の182年間を比較して、次のように述べている。
__________
吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起こすのでありました。


これに反して室町の182年は、紛乱の連続であり、その紛乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした。[5,p245]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
歴史教育が単なる知識の詰め込みではなく、日本国民としての生き方を考えさせる場であるとするならば、生徒にはこういう指摘にも触れさせるべきだろう。
(文責:伊勢雅臣)
__________
週間メール入門講座「教育再生」
http://bit.ly/118DokM 閉ざされたクラスルーム/密室の中の独裁者/学力崩壊が階級社会を招く/国語の地下水脈/人格を磨けば学力は伸びる/子供を伸ばす家庭教育/江戸日本はボランティア教育大国/国作りは人作り
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■リンク■

a. JOG(927) 歴史教科書読み比べ(24) 建武の中興
「挫折した建武中興の理想は、明治維新という形で復活した」
http://blog.jog-net.jp/201511/article_6.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27
2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、自由社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237834/japanontheg01-22/
3.村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9FWMI/japanontheg01-22/
4. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETF4/japanontheg01-22/
5. 平泉澄『物語日本史(中)』★★★、講談社学術文庫、S54
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4061583492/japanontheg01-22/
6. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇』★★★、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311539/japanontheg01-22/

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歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い

2016-02-14 00:48 護国夢想日記

■■ Japan On the Globe(938) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■
歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
■転送歓迎■ H28.02.14 ■ 44,431 Copies ■ 4,141,851Views■
無料購読申込・取消: http://blog.jog-net.jp/
■1.あまりにも表面的な「南北朝時代」の記述
 後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」がわずか2年余りで崩れた後、南北朝時代を迎える。


この後、約60年間、二つの朝廷が並び立つという空前絶後の異常事態が続くのだが、東京書籍版の中学歴史教科書の記述はわずか4行である。
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尊氏は京都に新たに天皇を立て、後醍醐天皇が吉野(奈良県)にのがれたので、二つの朝廷が生まれました。京都方を北朝、吉野方を南朝と呼び、この南北朝は全国の武士によびかけて戦いました。南北朝の動乱のつづいた約60年を南北朝時代といいます。[1,p70]
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これでは南北朝が互いの権力争いのために、全国を約60年間も戦乱に陥れた、という理解で終わってしまう。
一方、自由社版中学歴史教科書も、多少は詳しいが、大同小異の記述である。
__________
南北朝の争乱 1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは、京都に幕府を開き、鎌倉時代初期の北条泰時らの政治を手本とする、幕府政治再興の方針を明らかにしたものだった。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに2つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。両者は別々の年号を使った。
吉野に置かれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両者はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国で争いをつづけた。この時代を南北朝時代という。[2,p93]
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何のために南朝は吉野の山奥で約60年間も抵抗を続けたのか、そして勝利した足利幕府がなぜ権威を失って戦国時代に突入するのか、ここには我が国の国柄を理解する上で重大なポイントが潜んでいる。
■2.尊氏の策略から始まった南北朝

 そもそも南北朝並立という前代未聞の異常事態が始まったのは、尊氏の謀略からである。

九州から押し寄せた足利軍に対して、延元元(1336)年5月25日、湊川(現・兵庫県)の戦いに敗れた後、楠木正成・正季兄弟は「七生報国(七たび人間に生まれ変わって国に報いる)」を誓って差し違えた。
5月27日、後醍醐天皇は叡山に逃れたが、8月15日、京都に入った足利尊氏は持明院統の光厳(こうごん)上皇の弟宮を立てて光明天皇とした


後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが二朝並立の始まりである。
しかし、三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇には正統性はない。


そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京都に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、神器を光明天皇に渡すように強要した。
後醍醐天皇は、こうした事態も予期されていた様子で、偽物と言われる神器を渡された上で、秘かに12月21日夜、吉野(現・奈良県南部)に逃れ出た。こうして南朝が始まったのである。
後醍醐天皇在位のまま神器もなしの北朝擁立といい、神器を得るための策略といい、私欲のためには手段を選ばない尊氏の人となりが見てとれる。

■3.南朝の全国ネットワーク

南朝と言うと、いかにも吉野の山奥に潜んで、ゲリラ的抵抗を続けていたかのように思えるが、実際にはそうではなかった。


そもそも吉野は修験道の本拠地として、多くの寺社を擁し、それぞれが数百、数千の衆徒を抱える富強の地であった。
東は伊勢の地で勤王の志厚く、さらに海路で陸奥につながる。そこには北畠親房(ちかふさ)・顯家(あきいえ)親子が後醍醐天皇の第七皇子・義良(のりなが)親王(次代・後村上天皇)を奉じて関東を窺っていた。
西の河内は楠木一族の本拠地であり、そこから南朝方の熊野や伊予の水軍が支配する瀬戸内海を経て、九州の菊池・阿蘇ら勤王軍につながる。後醍醐天皇は懐良(かねよし)親王を征西将軍宮として派遣され、この親王のもとで九州では南朝方が優勢だった。
さらに北陸には新田義貞の一族が、京都を睨んでいた。このように南朝は吉野を中心に、全国的なネットワークを構築して、北朝と対峙していたのである。
■4.「城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み」

加えて、南朝には「天皇を国家統合の中心とし、その愛民の精神を文武の官が体して政治を行う」という後醍醐天皇の理想[a]に共鳴して戦い続けた人々が多かった。その一人が北畠親房(ちかふさ)である。

息子・顯家が戦死した後も、50歳に近い年齢にも関わらず、各地で南朝の勢力拡大、足利方との戦闘に奔走した。


吉野を中核に、皇子を各地に派遣して、全国に南朝方のネットワークを創るという雄大な戦略も、親房が編み出したものと言われている。
延元4(1339)年に後醍醐天皇がお隠れになると次代の後村上天皇のために、親房は常陸の小田城(茨城県つくば市)の陣中で筆をとり、我が国の国柄を歴史を通じて説いた『神皇正統記』を書き上げた。歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
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『神皇正統記』は彼の学識と情熱とをかたむけて執筆した国史であるとともに、歴史評論であり、その随所に、きびしい道義のことばがほとばしっている。


親房につき従う城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み、正統記の文章にはげまされて勇気を振いおこしては戦つたと伝えられている。[3,p249]
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南北朝史を専門とする村田正志博士は、この書が世の中にどう受けとめられたかを、次のように述べている。
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すなわち本書は南朝正統の歴史的理論的根拠を明らかにした書であり、著作された当時、南朝の人々はもとより一般人にも名著として歓迎され、その後室町時代にも重んぜられ、更に近世になってから後は、その学問的、また思想的価値が大いに認められるようになったのである。[4,p129]
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南朝の人々は、後醍醐天皇が率先し、親房が『神皇正統記』で描いた理想によって結ばれていた。

■5.「七生報国」の楠木・新田一族

その志を継承して、南朝方の武将たちが何代にもわたって戦い続けた史実も忘れがたい。
建武3(1336)年、足利尊氏の軍を兵庫・湊川で迎え撃とうとする正成は討死を決意し、11歳の息子・正行(まさつら)を郷里に帰るよう命じて、次のような遺戒を与えた。
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正成すでに討死すと聞きなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代に成りぬと心得べし、然(しか)りといへども、一旦(いったん)の身命を助からんために、多年の忠烈を失ひて、降人(こうじん、降伏)に出づる事あるべからず。[5,p210]
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正行はこの言葉通りに、吉野の西の守りを固め、正平3(1348)年、23歳の時に、押し寄せた足利の大軍を四條畷の戦いで破るが、自らも重傷を負い、弟・正時とともに自決する。
後を継いだ三男・正儀(まさのり)も、一時は北朝との和平を訴えて南朝内の立場を失い、やむなく北朝側に立った時期もあったが、その後は南朝側に復帰して戦い続けた。
以降の楠木一族も、元中7(1390)年、永享元(1429)年、同9(1438)年、文安4(1447)年、寛正元(1460)年に足利氏に反逆して討死にした記録が遺っている。1460年と言えば、正成の討死の124年後である。まさに「七生報国」を一族として実践したのである。
新田の一族も、義貞の子ら、そして弟の義助とその子らがみな志を同じくして南朝側に立ち、ほとんど戦死を遂げている。その子孫も、応永16(1409)年頃まで何度か足利氏に反逆して討死にした記録が残っている。
■6.足利一族の内紛、謀略、裏切り

南朝方が一つの志で全国的に結ばれ、かつ何代にもわたって戦い続けたのに対し、足利方は内紛、謀略、裏切りの連続であった。
尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟は専横を極め、尊氏の弟・直義(ただよし)と対立した。直義は正平5(1350)年、南朝に帰順し、その権威と武力を背景に、高兄弟の打倒を図った。
尊氏は高兄弟の側について、直義と戦ったが大敗。高兄弟は負傷し降伏したが、殺されてしまった。尊氏と直義は表面上は和解したが、翌年、不和が生じ、直義が京都から逃れ去ったので、尊氏は追討の兵を上げることとした。
この際、尊氏・義詮(よしあきら)親子は直義を真似て、南朝に降参して、その権威を利用しようとした。南朝方は容易には許さなかったが、尊氏は重ねて奏上し、後村上天皇の親政を願い、京都へのご帰還を請うたので、これを許した。
直義のみならず、尊氏親子まで降伏してきたので、正平6(1351)年、南朝方は北朝を廃止し、偽物とされていた神器も回収した。ここに一度は南北朝の並立という異常事態は解消したのである。各地の南朝軍も振るい立ち、京都も奪回した。
尊氏は南朝の承認を得た上で、鎌倉にのぼり、直義を成敗すると、翌正平7(1352)年、南朝方を裏切って、攻撃をしかけた。諸国の南軍が急ぎ上京して加勢しようとしたが、間に合わなかった。
尊氏・義詮は新たに後光厳天皇を立てたが、今回は偽の神器すらない中での即位となった。さすがにこれでは権威もないと、足利氏三代目の義満が南朝と和平交渉をし、明徳3(1392)年、南朝第4代の後亀山天皇から、北朝第6代の後小松天皇に譲位される形で、神器も北朝に渡されることになった。
和平条件としては、今後、再び、両朝から天皇が交互にお立ちになるという事だったが、義満は神器さえ取り戻せば、と、この合意を踏みにじってしまった。いかにも足利一族らしいやり口である。楠木・新田両一族がこの後も長く戦い続けたのは、この裏切りが原因であった。
■7.足利武士たちの無知と私利私欲

尊皇心、道義心に満ちた南朝方に対して、足利方の皇室軽視と謀略ぶりは鮮やかな対照をなしている。この違いのよって来る所を示す格好のエピソードがある。
足利方の土岐寄遠(とき・よりとお)という武士は、北朝初代天皇であった光厳上皇の行列に出会っても、馬を下りようとしなかった。上皇の先駆けの者が「光厳院がお通りになるのか分からないのか」と叱りつけると、土岐は「院だろうが犬だろうが、そんなこと知るものか、犬ならば射てみよう」と言って、院の輿(こし)に矢を射込ませた。
足利直義はさすがに驚き、土岐を死刑にした。これを聞いた武士たちは大いに恐れ入って、「上皇に出会ってさえ馬から下りなければならないのであれば、両御所(尊氏、直義)に出会ったときは地面に這いつくばらねばいけないのだろうか」とささやき合ったという。[6,p175]
上皇よりも尊氏などの方が偉いと思っている無知ぶりである。『神皇正統記』を戦いの合間に写しては読んだ南朝の武士たちとの違いは著しい。
南朝方と足利方の対照的な生き方を見ると、結局、足利方の武士たちは何ら学問をしていないために、人として信義の大切さも、皇室の伝統的な愛民精神も学ばずに、私利私欲のためだけに内紛、謀略、裏切りに明け暮れていたように思われる。
■8.「精神の美しい輝き」と「私利私欲の紛乱」と

室町幕府は初代・尊氏以降、15代将軍・義昭が織田信長によって京都から追放された元亀4(1573)年まで240年ほども続くが、最初の約60年は南北朝の争いが続き、両朝合一後も各地で乱が絶えることなく、応仁元(1467)年に始まった応仁の乱以降は、全国各地で有力守護大名が戦い合う戦国時代が100年ほども続く。
皇室の愛民精神にも学ばず、道義のかけらもない私利私欲だけの権力者のもとで国が治まるはずもない。室町幕府が権力も権威も失い、戦乱の世が続いたのも当然であった。
『物語日本史』の著者・平泉澄博士は、南朝の活躍した吉野時代57年間と、その後、足利幕府支配の182年間を比較して、次のように述べている。
__________
吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起こすのでありました。


これに反して室町の182年は、紛乱の連続であり、その紛乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした。[5,p245]
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歴史教育が単なる知識の詰め込みではなく、日本国民としての生き方を考えさせる場であるとするならば、生徒にはこういう指摘にも触れさせるべきだろう。
(文責:伊勢雅臣)
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週間メール入門講座「教育再生」
http://bit.ly/118DokM 閉ざされたクラスルーム/密室の中の独裁者/学力崩壊が階級社会を招く/国語の地下水脈/人格を磨けば学力は伸びる/子供を伸ばす家庭教育/江戸日本はボランティア教育大国/国作りは人作り
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a. JOG(927) 歴史教科書読み比べ(24) 建武の中興
「挫折した建武中興の理想は、明治維新という形で復活した」
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1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27
2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、自由社、H27
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3.村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48
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4. 村田正志『日本の歴史文庫8 南北朝と室町』★★、講談社、S50
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5. 平泉澄『物語日本史(中)』★★★、講談社学術文庫、S54
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6. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇』★★★、H22
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歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い

2016-02-14 00:48 護国夢想日記

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歴史教科書読み比べ(25) 南北朝時代 ~ 報国と私欲の戦い
「七生報国」で戦い続けた南朝の武士たちと、裏切り・内紛・謀略に明け暮れた足利方。
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■1.あまりにも表面的な「南北朝時代」の記述
 後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」がわずか2年余りで崩れた後、南北朝時代を迎える。


この後、約60年間、二つの朝廷が並び立つという空前絶後の異常事態が続くのだが、東京書籍版の中学歴史教科書の記述はわずか4行である。
__________
尊氏は京都に新たに天皇を立て、後醍醐天皇が吉野(奈良県)にのがれたので、二つの朝廷が生まれました。京都方を北朝、吉野方を南朝と呼び、この南北朝は全国の武士によびかけて戦いました。南北朝の動乱のつづいた約60年を南北朝時代といいます。[1,p70]
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これでは南北朝が互いの権力争いのために、全国を約60年間も戦乱に陥れた、という理解で終わってしまう。
一方、自由社版中学歴史教科書も、多少は詳しいが、大同小異の記述である。
__________
南北朝の争乱 1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは、京都に幕府を開き、鎌倉時代初期の北条泰時らの政治を手本とする、幕府政治再興の方針を明らかにしたものだった。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)にのがれ、ここに2つの朝廷が並び立つ状態が生まれた。両者は別々の年号を使った。
吉野に置かれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両者はそれぞれ各地の武士によびかけて、約60年間も全国で争いをつづけた。この時代を南北朝時代という。[2,p93]
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何のために南朝は吉野の山奥で約60年間も抵抗を続けたのか、そして勝利した足利幕府がなぜ権威を失って戦国時代に突入するのか、ここには我が国の国柄を理解する上で重大なポイントが潜んでいる。
■2.尊氏の策略から始まった南北朝

 そもそも南北朝並立という前代未聞の異常事態が始まったのは、尊氏の謀略からである。

九州から押し寄せた足利軍に対して、延元元(1336)年5月25日、湊川(現・兵庫県)の戦いに敗れた後、楠木正成・正季兄弟は「七生報国(七たび人間に生まれ変わって国に報いる)」を誓って差し違えた。
5月27日、後醍醐天皇は叡山に逃れたが、8月15日、京都に入った足利尊氏は持明院統の光厳(こうごん)上皇の弟宮を立てて光明天皇とした


後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが二朝並立の始まりである。
しかし、三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇には正統性はない。


そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京都に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、神器を光明天皇に渡すように強要した。
後醍醐天皇は、こうした事態も予期されていた様子で、偽物と言われる神器を渡された上で、秘かに12月21日夜、吉野(現・奈良県南部)に逃れ出た。こうして南朝が始まったのである。
後醍醐天皇在位のまま神器もなしの北朝擁立といい、神器を得るための策略といい、私欲のためには手段を選ばない尊氏の人となりが見てとれる。

■3.南朝の全国ネットワーク

南朝と言うと、いかにも吉野の山奥に潜んで、ゲリラ的抵抗を続けていたかのように思えるが、実際にはそうではなかった。


そもそも吉野は修験道の本拠地として、多くの寺社を擁し、それぞれが数百、数千の衆徒を抱える富強の地であった。
東は伊勢の地で勤王の志厚く、さらに海路で陸奥につながる。そこには北畠親房(ちかふさ)・顯家(あきいえ)親子が後醍醐天皇の第七皇子・義良(のりなが)親王(次代・後村上天皇)を奉じて関東を窺っていた。
西の河内は楠木一族の本拠地であり、そこから南朝方の熊野や伊予の水軍が支配する瀬戸内海を経て、九州の菊池・阿蘇ら勤王軍につながる。後醍醐天皇は懐良(かねよし)親王を征西将軍宮として派遣され、この親王のもとで九州では南朝方が優勢だった。
さらに北陸には新田義貞の一族が、京都を睨んでいた。このように南朝は吉野を中心に、全国的なネットワークを構築して、北朝と対峙していたのである。
■4.「城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み」

加えて、南朝には「天皇を国家統合の中心とし、その愛民の精神を文武の官が体して政治を行う」という後醍醐天皇の理想[a]に共鳴して戦い続けた人々が多かった。その一人が北畠親房(ちかふさ)である。

息子・顯家が戦死した後も、50歳に近い年齢にも関わらず、各地で南朝の勢力拡大、足利方との戦闘に奔走した。


吉野を中核に、皇子を各地に派遣して、全国に南朝方のネットワークを創るという雄大な戦略も、親房が編み出したものと言われている。
延元4(1339)年に後醍醐天皇がお隠れになると次代の後村上天皇のために、親房は常陸の小田城(茨城県つくば市)の陣中で筆をとり、我が国の国柄を歴史を通じて説いた『神皇正統記』を書き上げた。歴史学者・村尾次郎博士はこう評している。
__________
『神皇正統記』は彼の学識と情熱とをかたむけて執筆した国史であるとともに、歴史評論であり、その随所に、きびしい道義のことばがほとばしっている。


親房につき従う城兵も、戦闘のあいまにこれを写しては読み、正統記の文章にはげまされて勇気を振いおこしては戦つたと伝えられている。[3,p249]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
南北朝史を専門とする村田正志博士は、この書が世の中にどう受けとめられたかを、次のように述べている。
__________
すなわち本書は南朝正統の歴史的理論的根拠を明らかにした書であり、著作された当時、南朝の人々はもとより一般人にも名著として歓迎され、その後室町時代にも重んぜられ、更に近世になってから後は、その学問的、また思想的価値が大いに認められるようになったのである。[4,p129]
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南朝の人々は、後醍醐天皇が率先し、親房が『神皇正統記』で描いた理想によって結ばれていた。

■5.「七生報国」の楠木・新田一族

その志を継承して、南朝方の武将たちが何代にもわたって戦い続けた史実も忘れがたい。
建武3(1336)年、足利尊氏の軍を兵庫・湊川で迎え撃とうとする正成は討死を決意し、11歳の息子・正行(まさつら)を郷里に帰るよう命じて、次のような遺戒を与えた。
__________
正成すでに討死すと聞きなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代に成りぬと心得べし、然(しか)りといへども、一旦(いったん)の身命を助からんために、多年の忠烈を失ひて、降人(こうじん、降伏)に出づる事あるべからず。[5,p210]
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正行はこの言葉通りに、吉野の西の守りを固め、正平3(1348)年、23歳の時に、押し寄せた足利の大軍を四條畷の戦いで破るが、自らも重傷を負い、弟・正時とともに自決する。
後を継いだ三男・正儀(まさのり)も、一時は北朝との和平を訴えて南朝内の立場を失い、やむなく北朝側に立った時期もあったが、その後は南朝側に復帰して戦い続けた。
以降の楠木一族も、元中7(1390)年、永享元(1429)年、同9(1438)年、文安4(1447)年、寛正元(1460)年に足利氏に反逆して討死にした記録が遺っている。1460年と言えば、正成の討死の124年後である。まさに「七生報国」を一族として実践したのである。
新田の一族も、義貞の子ら、そして弟の義助とその子らがみな志を同じくして南朝側に立ち、ほとんど戦死を遂げている。その子孫も、応永16(1409)年頃まで何度か足利氏に反逆して討死にした記録が残っている。
■6.足利一族の内紛、謀略、裏切り

南朝方が一つの志で全国的に結ばれ、かつ何代にもわたって戦い続けたのに対し、足利方は内紛、謀略、裏切りの連続であった。
尊氏の重臣・高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟は専横を極め、尊氏の弟・直義(ただよし)と対立した。直義は正平5(1350)年、南朝に帰順し、その権威と武力を背景に、高兄弟の打倒を図った。
尊氏は高兄弟の側について、直義と戦ったが大敗。高兄弟は負傷し降伏したが、殺されてしまった。尊氏と直義は表面上は和解したが、翌年、不和が生じ、直義が京都から逃れ去ったので、尊氏は追討の兵を上げることとした。
この際、尊氏・義詮(よしあきら)親子は直義を真似て、南朝に降参して、その権威を利用しようとした。南朝方は容易には許さなかったが、尊氏は重ねて奏上し、後村上天皇の親政を願い、京都へのご帰還を請うたので、これを許した。
直義のみならず、尊氏親子まで降伏してきたので、正平6(1351)年、南朝方は北朝を廃止し、偽物とされていた神器も回収した。ここに一度は南北朝の並立という異常事態は解消したのである。各地の南朝軍も振るい立ち、京都も奪回した。
尊氏は南朝の承認を得た上で、鎌倉にのぼり、直義を成敗すると、翌正平7(1352)年、南朝方を裏切って、攻撃をしかけた。諸国の南軍が急ぎ上京して加勢しようとしたが、間に合わなかった。
尊氏・義詮は新たに後光厳天皇を立てたが、今回は偽の神器すらない中での即位となった。さすがにこれでは権威もないと、足利氏三代目の義満が南朝と和平交渉をし、明徳3(1392)年、南朝第4代の後亀山天皇から、北朝第6代の後小松天皇に譲位される形で、神器も北朝に渡されることになった。
和平条件としては、今後、再び、両朝から天皇が交互にお立ちになるという事だったが、義満は神器さえ取り戻せば、と、この合意を踏みにじってしまった。いかにも足利一族らしいやり口である。楠木・新田両一族がこの後も長く戦い続けたのは、この裏切りが原因であった。
■7.足利武士たちの無知と私利私欲

尊皇心、道義心に満ちた南朝方に対して、足利方の皇室軽視と謀略ぶりは鮮やかな対照をなしている。この違いのよって来る所を示す格好のエピソードがある。
足利方の土岐寄遠(とき・よりとお)という武士は、北朝初代天皇であった光厳上皇の行列に出会っても、馬を下りようとしなかった。上皇の先駆けの者が「光厳院がお通りになるのか分からないのか」と叱りつけると、土岐は「院だろうが犬だろうが、そんなこと知るものか、犬ならば射てみよう」と言って、院の輿(こし)に矢を射込ませた。
足利直義はさすがに驚き、土岐を死刑にした。これを聞いた武士たちは大いに恐れ入って、「上皇に出会ってさえ馬から下りなければならないのであれば、両御所(尊氏、直義)に出会ったときは地面に這いつくばらねばいけないのだろうか」とささやき合ったという。[6,p175]
上皇よりも尊氏などの方が偉いと思っている無知ぶりである。『神皇正統記』を戦いの合間に写しては読んだ南朝の武士たちとの違いは著しい。
南朝方と足利方の対照的な生き方を見ると、結局、足利方の武士たちは何ら学問をしていないために、人として信義の大切さも、皇室の伝統的な愛民精神も学ばずに、私利私欲のためだけに内紛、謀略、裏切りに明け暮れていたように思われる。
■8.「精神の美しい輝き」と「私利私欲の紛乱」と

室町幕府は初代・尊氏以降、15代将軍・義昭が織田信長によって京都から追放された元亀4(1573)年まで240年ほども続くが、最初の約60年は南北朝の争いが続き、両朝合一後も各地で乱が絶えることなく、応仁元(1467)年に始まった応仁の乱以降は、全国各地で有力守護大名が戦い合う戦国時代が100年ほども続く。
皇室の愛民精神にも学ばず、道義のかけらもない私利私欲だけの権力者のもとで国が治まるはずもない。室町幕府が権力も権威も失い、戦乱の世が続いたのも当然であった。
『物語日本史』の著者・平泉澄博士は、南朝の活躍した吉野時代57年間と、その後、足利幕府支配の182年間を比較して、次のように述べている。
__________
吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起こすのでありました。


これに反して室町の182年は、紛乱の連続であり、その紛乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした。[5,p245]
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歴史教育が単なる知識の詰め込みではなく、日本国民としての生き方を考えさせる場であるとするならば、生徒にはこういう指摘にも触れさせるべきだろう。
(文責:伊勢雅臣)
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6. 渡部昇一『日本の歴史2 中世編 日本人の中の武士と天皇』★★★、H22
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